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民族宗教の成立(2)

 引き続いて東南アジアから西アジアにかけて、次のような民族形成が進んだ。

 インドシナ半島はインド (indo) と中国 (Chine) の間に位置することでその名がある。マレー半島の部分を除けば幅が広い半島で、いまベトナム、ラオス、カンボジア、タイなどに分かれるが、かつてはクメール民族によるアンコール帝国がほぼ全域を支配し、12世紀が絶頂期であった。熱帯季節風気候のもとでメコン川などの水量に恵まれて水田稲作と漁業が発展し、アジアの東西を結ぶ海上交通の要路にあって国際交易都市が発達した。
 インドのガンジス川が流れる先にあって、早くからインド文化の影響を受けた。土着の精霊信仰とインドの王権思想が結びついたようで、インドから来たバラモン僧(司祭)と蛇王の姫(ナーギー)が結ばれて王朝が生まれたとの伝説がある。サンスクリット語の碑文、青銅の天神像、重層の王宮、杭上の庶民住宅、ため池、闘鶏や闘豚、熱湯に手を入れる神裁という文化様式を発達させた。ただしインド文化の受容は選択的で、バラモン僧がいない、女性の地位が高い、カースト制がないなどの特徴をもつ。 

 インド亜大陸では、紀元前1500年のころ、ドラヴィタ人が住んでいたところへ北方からアーリア人が侵入した。土着と外来の文化が混淆して特有のインド文化が固まるのは、紀元前後とされる。新来のアーリア人は土着民との区別のため、ヴァルナ(色)に基づく階層制を持ち込み、のちのカーストの原型を作った。
 最高の階層にいるバラモン僧は4つの「ヴェーダVeda聖典」(知識の意)を保持し、多くの神々に対する讃歌、呪文、神話などによる信仰形態を持ち込んだ。神々には、太陽、月、大地、河、空、雨、暴風、火、水などの自然を神格化したもののほか、戦い、癒し、神酒、混沌などさまざまの役割を担ったものがあり、後世に多数の神々を擁するヒンズー教が定立する基盤となった。
 祭祀においては、作物や生け贄を火中に投ずる「火投」が神と交わる重要な手段とされ、のちの密教における「護摩」の祖型になった。ヴェーダを記した文字は、サンスクリットという聖なる言語に発展した。

 インド西方のイラン高原(ペルシャ)へも、紀元前2000~1500年ころに北方の南ロシア地帯から遊牧民のアーリア人が侵入した。低地の渓谷などに住みつき牧畜や農牧を生業としたが、当時の宗教事情はよく分からない。彼らは文字を持たなかったため口誦で伝わったものに限られるし、地域ではのちにゾロアスター教が国教となり、さらにスンニ・シーア両派のイスラームを時代ごとに受容した。その間に既往の資料は失われたであろうし、他宗教を受容する柔軟性を示したのを見ると、確たる民族形成がなされなかったのかも知れない。
 おそらく超自然的な力を神格化した土着信仰があるところへ「ヴェーダ聖典」に基づく多神教の神々への祭祀が持ち込まれた。マギと呼ぶ特定の部族出身者が聖火のまわりで秘儀を執り行い、生け贄を供えて火で焼き、神々の怒りを鎮める呪文を唱えるなどが行われた。彼らは天文や医術にも長けており、自制心を失わせる生薬を用いて、真理への思索を深めたり、戦士の戦闘心を高めたりを試みた。

 ユダヤ人の集団は、紀元前12世紀のころに奴隷状態にあったエジプトから抜け出し(出エジプト)、約40年間にわたってシナイ半島の荒野などをさまよった。その間、モーゼの指導のもとで、アブラハムを始祖とする血統のもとにあり、唯一神であるヤハウェYHWH の命令に従うのが救済への道であるとの信念をもつ宗教共同体になった。
 カナンの地(パレスチナ)に住みついたあとも、紀元前10世紀の南北両王国への分裂、その後の両王国の滅亡、紀元前6世紀に主だった者らがバビロンに連れ去られ50年間ほど留め置かれる(バビロンの捕囚)などの歴史を経るなかで『旧約聖書』の原形となる信仰物語を固めた。洪水神話、バベルの塔などはメソポタミアの神話であり、死後の審判、天国と地獄、救世主の到来はゾロアスター教の教えに通じる。食物規定、安息日、割礼、淨・不浄などに関する律法もしだいに定められた。

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