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信愛(バクティ)& タントリズム(秘密宗教化)

 5世紀半ばから、インド亜大陸の北西部は匈奴の攻撃を受ける。長く統一を維持したグプタ王朝もしだいに衰え、アフガニスタン東北部で興ったエフタル族が侵入して550年に滅亡する。7世紀前半に、ヴァルダナ朝のハルシャ王が北インドを一時支配するが、以後の600-700年間は政治的な分裂が続く。13世紀初には、デリーに中心を置くイスラーム王朝の北インド支配が始まる。
 この間、経済社会面では職業が多様化するなかで男系による世襲が進み、食卓や婚姻を共にする内婚集団である「ジャーティ」(出生)が育つ。ここにおいてヴァルナ(肌色)による4身分制(バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラ)が発展して、インド社会にカースト制が根付く。
 分権的な地位にとどまった多くの王は、クシャトリア出身であることを権力の根拠としたので、ヴァルナ(カースト)制を擁護した。バラモンはその主張を正当化することで自らの権威を高め、政治的地位を強化して国家行事に参画した。
 仏教やジャイナ教は、身分差別に批判的なことから、このような社会的浸透力を得ることがない。くわえて次に述べる2つの宗教的うねりのなかでしだいに存在感を失い、亜大陸の宗教における地位でヒンズー教に逆転を許した。

 第1のうねりは、神々への熱烈な帰依を歌って踊る信愛(バクティ)運動である。慈悲深い神への思慕と憧憬を心に抱き、ひたすらなる信仰心を訴えて神との直接的な交感を図るもの。村から村へとめぐる吟遊詩人が登場し、神への讃歌を唱えることで、爆発的に広がった。神に無条件にゆだねることを重視し、『ヴェーダ聖典』に関する特別の知識や動物の供儀はもちろん、出家などの苦行も不要とした。このため知識や実行力に欠けると自認する人びとに浸透し、宗教の大衆化と土着化を進めた。
 信愛運動が7世紀のころに南インドで始まったときには、仏教やジャイナ教の影響もあったとされるが、各地に伝播する過程でヴィシュヌ神とシヴァ神への讃歌が圧倒的になる。イスラームの神秘主義との交流も見られた。

 第2のうねりは、下層民を中心に展開したタントリズム(性力崇拝などの秘密宗教)である。最高神を観想しつつヨーガや手印を用いて肉体を制御することにより、神を勧請し、自らの心臓の上に顕現させ、神との合一(一体化)を図るもの。実践では、師資相承(ししそうじょう)される秘密の聖句(マントラ)などを必要とするが、高度な哲学や修行は不要とする。そのいっぽう、日々の暮らしや欲望をそのまま肯定したので、一般大衆に容易に受け入れられた。
 勢いにかげりの見えた仏教の側でも、同様にタントリズムを取り入れる宗派が現れた。秘密の呪句(陀羅尼=だらに)や印契(いんげい)などの儀軌を採り入れ、これらが師匠から弟子へと、面授により師資相承されることを建前とした。

 7世紀から8世紀にかけてインドで成立した『大日経』と『金剛頂経』は、観想、灌頂、護摩、印契、真言、曼荼羅(マンダラ)などに関する実践法を体系化し、純密or中期密教の仏典とされる。ここでは法を説くのは釈尊ではなく大日如来(毘盧遮那仏)となり、祈りの現場では口密(真言を唱える)・身密(印相を結ぶ)・意密(心に瞑想する)の三密行を実践する。密教世界の縮図とされる胎蔵と金剛界の両部曼荼羅を観想し、自らのうちに仏を体現して即身成仏する。(次の写真は両部曼荼羅)両界曼荼羅.JPG
 『理趣経』を日常的に読誦する仏典として重視する。なかでは男女の性愛の言葉を用いて悟りの境地が述べ、祈祷により絶対的な安楽と堅固な真実にいたることを説く。さまざまの欲望も一部を見れば汚れた部分もあるが、より高い見地から見ると、それ自身の本性は自性清浄である。業(ごう)や煩悩は否定されるべきものではなく、むしろ聖化して受け入れることにより、悟りをめざすべきとする(煩悩即菩提)。
 密教化した仏教は、我が国へは平安時代に空海により伝えられた。祈祷の実践によって、国家鎮護・病気治癒・願望成就などの効験が期待された。

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ヒンズー教の神々

 インド亜大陸には、歴史上、さまざまの神格が登場した。多神教のもとで、ヒンズー教徒はどの神に祈りを捧げるのであろうか。
 アーリア人が到来する以前には土着神の神々があり、インダス文明の遺跡からも地母神や男根の像が見つかる。アーリア人が持ち込んだ『ヴェーダ聖典』には自然現象を神格化したさまざまの神への讃歌があり、そのなかでインドラ(雷の神、仏教の帝釈天)とアグニ(火の神)に対するものが多かった。『2大叙事詩』ではクリシュナ神などが登場した。
 多くの神々が登場するなかで、どの神を最高神として重視するかは、時代により変遷があったようだ。非アーリア系の土着神がよみがえったり、神々が混淆したりして、しだいにシヴァ神、ヴィシュヌ神、女神の3神の人気が高まった。宇宙の根本原理を神格したブラフマー神が構想され、これを最高神とする動きもあったが、理念的な神は民衆の間に浸透しなかった。
 こうして3神を最高神とする3つの宗派がヒンズー教の中枢を形成し、他の神々は3神の眷属である妃神や子ども神になったり、3神の化身や権化とされたりして、支派を形成する。
 人びとはこれらのなかから自らが好む御本尊を選び、それに関する『プラーナ文献』を規範として宗教生活を送る。かくして多神教ながら個々の信者には、一神教的な創造主が存在する宗教体系ができあがった。リンガ/ミーソン遺跡.JPG

 シヴァ Siva :もとは土着の破壊神であったものが『ヴェーダ』の暴風神ルドラと同一視され、受け入れられた。モンスーンの破壊と雨後の蘇生を象徴し、破壊と創造、残忍と慈悲の両面をもつ。インダス文明に起源をもつリンガ(男根)崇拝と結びつき、多産・豊穣・吉祥の神威をも象徴する(写真はベトナムのヒンズー文明・ミーソン遺跡のリンガ)。
 各地に土着する神々を眷属として包摂し、後述する女神はシヴァ神の妃神とされる。シヴァ神の2人の息子神は我が国にも伝わり、ガネーシャが招福をもたらす歓喜天or聖天として、スカンダが仏法の守護神である韋駄天として祀られる。

 ヴィシュヌ Vishnu :地上から天界まで3歩で踏破するという非アーリア系の太陽光照神が『リグ・ヴェーダ』に取り入れられ太陽光の神格となる。危機が迫るまで海に漂う大蛇(蛇王)の上で眠り、不正義が世界を覆うとき、ガルーダ(霊鳥)とヒトが結合した姿となって顕現し、新たな創造を担う。
 正義と慈悲を象徴する創造主で、魚、亀、猪、人獅子などに化身することが一般的だが、信ずる者にとっては『マハバーラタ』のクリシュナ神、『ラーマーヤナ』のラーマ王、仏教の開祖である仏陀も、ヴィシュヌの化身であるという。

 シャクティ Sakti(デーヴィー女神):インダス文明の遺跡からは地母神の像が見つかるが、『ヴェーダ』には女神を最高の神格とする例がなかった。土着の女神がシヴァ神の妃神として眷属に加えられ、インドの伝統に組み込まれたものであろうという。
 美と戦いの女神であるドゥルガー、黒色で猛々しい女神のカーリー、豊穣と幸運の女神であるラクシュミー(仏教の吉祥天)、学問と技芸の女神であるサラスヴァティー(七福神の弁財天)など、さまざまの姿で顕現するが、究極的には同一の神であるという。性力(シャクティ)を象徴する。
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ヒンズー教の成立

 難解な宗教哲学ができたところで、教義が民衆に広がるわけではない。グプタ朝期は古代文化の黄金時代とされ、その間、次に挙げる宗教に関わる2種の著作が作成された。これらが民衆の心に根付いて、バラモンが主導するヒンズー教が成立した。

 第1に、インドの口承文学の伝統を踏まえ、多くの神話と伝統を含む「2大叙事詩」が完成した。長年にわたり吟遊詩人やバラモンが各地を遍歴しつつ口誦することで、新たな説話や伝説が織り込まれ、長大な詩節から成る叙事詩となった。
 『マハバーラタ』は「バラタ族の戦争を物語る大史詩」という題名で、2つの王家が北インドの覇権をめぐって競う物語である。全18巻、約10万の詩節で成り、世界最大の叙事詩とされる。BC4~AD3世紀に整備された。
 『ラーマーヤナ』は「ラーマ王子の行状記」という題名で、ラーマ王と悪魔とが地上の王国の覇権を争う物語である。全7巻、24,000詩節で成り、BC2~AD2世紀に編纂された。
 これらでは多彩な能力を持つ人物が登場し、矛盾を抱える情勢のなかで、葛藤と相克に満ちた選択を迫られる。その生き様がわかりやすい譬え話や訓話として民衆に語られ、人びとへの教訓となり、倫理感を形成した。

 第2に、叙事詩の内容をさらに発展させて『プラーナ文献(伝承聖典)』の編纂が始まった。古くから伝えられる神々や王族の伝説をもとに、多くの語り手が新たな情報や知識を付け加え、ヒンズー教の聖典となる。数多くの文献があるなかで、重要視される18の文献が『大プラーナ』と呼ばれ、これらがAD5~10世紀に成立した。
 それぞれは宇宙論、神々の神話、王朝の歴史をはじめ、生きる目的、宗教上の誓い、祖霊崇拝、神殿や祭式、巡礼地、カースト制のほか、音楽、医療、法制、哲学、伝統、習俗に及ぶ情報の集大成である。誕生・結婚・出産・葬式など人生の通過儀礼や祭式・清浄法・喜捨など日々の生活に関わり、民衆に浸透した。
 これら2つの著作の思想が、バラモンの主導する祭祀や儀礼に溶け込み、亜大陸の人びとの生活や思想に根づいた。ここにインドの民族宗教の姿が整い、ヒンズー教が成立した。

 ここでは一例として『バガヴァッド・ギーター:Bhagavad Gita』(神の歌)と称する文献の内容を紹介しておこう。もとはクリシュナを最高神とするバーガヴァッタ派の聖典であったものが『マハバーラタ』の一部として取り入れ、ヒンズー教の重要な教説を含むという。バーガヴァタ・プラーナ(東博).jpg
 サンスクリット語で書かれたものが18世紀にヨーロッパで翻訳され、シュレーゲル、フンボルト、ヘーゲルなどの思想家に取り上げられた。マハトマ・ガンジーが座右の書としたことでも知られる。(写真は「バガヴァッド・プラーナ」と題する絵/東京国立博物館)

 文献の中身は「戦士アルジュナ」と「クリシュナ」の対話に終始する。アルジュナは開戦前に敵将のなかに親族や師を見つけ、座り込んで戦いに立とうとしない。これに対し、人であり神であるクリシュナが、宗教的な理由や立場を挙げて決起を促す場面が描かれる。
 まず、神であることを明らかにしない「人間クリシュナ」が説得する。“人は死んでも個我は永遠不滅だから罪にならない。クシャトリアという戦士階級は戦うことが義務であり、無私の行為である。梵我一如に達すれば、行為をしても行為をしたことにはならない”などと説くが、アルジュナは立たない。
 次いで「神クリシュナ」であることを明かし、最高神として畏怖すべき存在であると宣言したうえで“私に帰依せよ。信愛(バクティ)せよ。恩寵により、あなたは最高の寂静と永遠の境地に達するであろう。我執により私の教えを聞かなければ、あなたは滅亡するであろう”などと、押したり引いたりして決断を迫る。それでもアルジュナは立たない。
 最後に、神の究極の秘密である最高の言葉として“一切の行為の結果を放擲(捨離)して私のみに庇護(助け)を求めよ。私はあなたをすべての罪過から解放(救済)するであろう。嘆くことはない”と発する。これを聞いて、遂にアルジュナが立つ。
 どうやら“他力本願的”に神に向かうべきことを説いているようだ。

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六派哲学の成立

 ガンジス川の中・下流域で仏教とジャイナ教が伸長し、マウリア王朝(BC317~BC180)のもとで脚光を浴びた。亜大陸の西北部を中心としたクシャーナ朝(AD45~500頃)のもとでは、大乗仏教が展開した。これら新宗教は各人の精進と努力を説くから『ヴェーダ聖典』が讃える神々を重んじない。
 司祭階級であるバラモンは、主宰する祭式や儀礼が支持されず、自らを上位とするヴァルナ(肌色)による格付けも認められない。社会的に逼塞を余儀なくされたであろうが、民衆の日常生活や年中行事に関わって影響力を保持した。

 4世紀にグプタ王朝(AD320~550)が興り、マウリア朝と同じくガンジス川中流域のパータリプトラを首都とした。初代王のチャンドラグプタ1世(在位320-35)がヴィシュヌ神の信者であると公言したことは、バラモンを勇気づけたであろう。第2代のサムドラグプタ(AD335~75)が直接支配したのは亜大陸の北部にとどまったが、亜大陸の南部や辺境域に対する宗主権を獲得した。第3代のチャンドラグプタ2世(在位AD375~414、超日王)のとき最盛期を迎えた。
 歴代王の多くは、支配の正当化と安定を図るため、階位的秩序を重んじるバラモン教を国教とした。ヴィシュヌ神を信仰した王が多いが、シヴァ神を奉じた王もいた。
 経済的には農業が発展し、ガンジス川流域から中央インドやベンガルなど周辺域へも広がった。バラモンが農村に定住して自らの寺院を建設することが増え、南インドには6世紀のころまで仏教寺院であったものが、バラモン教ないしヒンズー教の寺院に転換した遺跡がある。国王によるバラモン教の儀式である「馬祀り」(聖馬など多くの動物を供儀する祭典)を行った跡も残る。

 仏教とジャイナ教が思想の体系性と普遍性を示したことに刺激され、バラモンの寺院でも主導する宗教に関する哲学研究の努力がなされた。有神論の立場を貫き、自らが持ち込んだヴェーダの神々にとどまらず、非アーリア系の土着神も取り入れた。
 これらの成果がAD5世紀のころまでに結実し、宇宙・人間存在・祭式・解脱などに関する6つの学派が生まれる。これらが「六派哲学」と呼ばれ、一体となってヒンズー教における正統哲学となる。

 <伝統的・保守的学派>
・ ヴェーダーンタ学派:『ヴェーダ聖典』を重視し、究極の実在であるブラフマンからの流出により世界が形成されるとする。各人が解脱を得るにはブラフマンと一体化すること、つまり「梵我一如」の必要を説く。ウパニシャッドを引き継ぐものとして、正統哲学の思索に関する中核的役割を担う。しだいに神秘主義的傾向を強めた。
・ ミーマーンサー学派:『ヴェーダ聖典』の祭祀や儀礼を宗教的義務であるとして重んじ、徹底的な服従と実行を求めた。これら祭事にかかる規定・由来・意義などを説いて、伝統的な祭事学と行動学の中心となる。

 <開明的・進歩的学派>
・ サーンキヤ学派:宇宙は精神的原理(動力因)と物理的原理(質量因)の2元で構成され、後者が前者に触発されることで、世界が開展し、転変する。各個が原因を内包する「因中有果」の立場に立ち、この理を悟ることが正統的解脱である。
・ ヴァイシェーシカ学派:原子の組合せにより世界は多元的に実在するとし、各個は原因を内包しない「因中無果」の立場に立つ。こうした自然哲学的な宇宙の原理を正しく認識することが、アートマンを正しく保つことになる。

 <全学派に共通する学問>
・ ニヤーヤ学派:正しい知識を得るには正しい認識方法が必要で、これには直接知覚・推論・類比・聖なる教え(信頼すべき人の教え)の4つがあるとし、全学派に共通する論理学をまとめた。大乗仏教で「空」を唱えた中観派と激しく論争した。
・ ヨーガ学派:ヨーガの技法により、身心を訓練し、欲を離れて精励することで自己の回復をめざす。精神と身体の統一により解脱を得る技法を整理・体系化し、全学派に共通する知識体系となる。
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大乗仏教(2)

 「華厳経」はAD1,2世紀からインドに伝わる多くの仏典が、4世紀ごろに中央アジアでまとめられたもの。上座部仏教を含めたすべての宗派の総合を企図し、実践を強調する膨大な典籍である。
 縁起の思想を発展させ「事事無碍(じじむげ)」を教えの根本とした。無碍とは障碍がないことを意味し、現象界は目に見えないところで因縁の連鎖や因果の網で繋がっているとする。万物は全体を構成する部分であり、因果性や同一性をもって何らかの形で細かく網合わされ(因陀羅網)、いささかの緩みもない。別々に見える事物も、真理の目で見れば互いに繋がっており、全宇宙は相依り相連なる「法界縁起」の世界である。
 とすれば衆生済度のために修行することは他人の利益にも連なる自利即利他であり、道を求める心には、すでに悟りが含まれる。ここに慈悲心をもって利他行に励む菩薩行道に根拠が与えられ「菩薩」という新しい仏が誕生した。呼び名はゾロアスター教のサオシュヤント(「人びとを利益するもの」の意)が起源とされ、インドとイラン高原の文化融合がみられる。
 事事無碍の思想をさらに発展させると、過去・現在・未来も繋がり合うこととなり、仏の「三身説」が説かれる。歴史的に存在した応身仏たる釈尊のほか、完全な功徳を有すべく未来に向けて修行する報身仏たる阿弥陀仏や薬師如来があり、現にいまも真理の法を説く法身仏たる毘廬遮那(ヴィルシャナ)仏が存在する。かくして現世は毘廬遮那仏によって厳淨される華厳の世界である。ボロブドゥール遺跡.jpg
 奈良の大仏は毘廬遮那仏である。インドネシアのジャワ島に残るボロブドゥール遺跡はシャイレーンドラ朝が8世紀に造った寺院で、華厳思想により造られたという。(写真は丸岡京一氏撮影)

 「阿弥陀経」「大無量寿経」「観無量寿経」は「浄土三部経」と称され「空」に飽き足らない人びとに極楽浄土を説いた。AD1世紀のころに北インドで成立したとされ、西洋の楽園思想の影響がうかがえる。
 「阿弥陀経」は現世を濁りの避けがたい末法の世であるとし、来世に期待を抱かせる。阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏の名号を一心不乱に思えば救われ、死後に極楽浄土に生まれるとする。我が国では時宗が重んじる。
 「大無量寿経」は阿弥陀仏の誓願を説き、浄土三部経において最大である。阿弥陀仏は法蔵菩薩であったとき48の誓願を立て、この願いが成就されなければ仏にならないとして修行に入った。誓願の第18番目に「衆生が至心に信じ願って我が極楽浄土に生まれようとして、10度でも念じたとする。もしその通りにならなかったら私は仏にならない」というのがある。法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏になっているから、願いは成就されたはずで、極楽浄土へ行くには念仏を唱えればいいとする。我が国では浄土真宗が重んじる。
 「観無量寿経」のみは、4,5世紀に中央アジアで成立した。阿弥陀仏と極楽浄土を思い浮かべる観相の仕方を説き、我が国では浄土宗が重んじる。

 「法華経」はAD1世紀半ばから100年ほどの間に、西北インドで作られたとされる。過去の仏典のすべてに存在意義があり、上座仏教も含めて根底は不二一体で、互いに相即・相関する統一的真理をもつ。法華経はこれらすべてを包摂する仏典であるから、奉ずる者に幸いがあり、非難する者には災難がふりかかる。6世紀に隋の智顗(ちぎ)が体系化して天台宗を開き、諸宗派の最上位に位置づけた。
 仏教の修行法には、釈尊の教えを聞いたまま実践する「声聞乗」、自らのために修行するが人には教えを説かない「縁覚乗」(上座仏教)、他人の利益を含めて自利利他をめざす「菩薩乗」(大乗仏教)の3つがある。「法華一乗」はこれらをひとつに融合したもので、ひとつの乗り物なのに異なる教えがあるのは、衆生を導く方便として仏がさまざまに法を説いたからである。
 時代を超えて法華一乗があるだけであるとすれば、これはゴータマ・シッダールタの教えではない。肉体を持った釈尊は衆生を導くため、仮に姿を現した方便的存在であり、久遠の太古に成仏した久遠実成仏(くおんじつじょうぶつ)が存在するはずである。時代と空間を超えた永遠の仏は普遍的存在であり、常住不滅の真如であるから教えは絶対的真理である。
11面観音偐(東博).jpg
 「観音経」は、法華経第25章の観世音菩薩普門品(ふもんぼん)で、本来は独立した経典であったものが法華経に取り入れられたものとされる。観世音菩薩は無量無辺の福徳をもち、その御名を唱えれば33の姿となって顕れ、大火・大水・風難・刀杖・悪鬼など7つの難儀から人びとを救い出し、欲・怒り・迷いの3毒から人びとを離れさせる。くわえて、子宝など人びとのさまざまの願いを叶えてくれる。(写真は十一面観音像/東京国立博物館)


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大乗仏教(1)

 その後のインドにおける仏教とバラモン教(ヒンズー教)の事情は、カール・ヤスパースが「基軸の時代」と呼ぶ時代(紀元前800~200年、とくに紀元前6~5世紀)から掛け離れる。ただし日本の宗教事情と関係が深いので、以下にまとめることとする。まずは大乗仏教の話。

 釈尊の入滅後、100年ほどの間、仏教の出家集団は一枚岩であった。しかし戒律の解釈の違いを機に、保守的な上座部と革新的な大衆部に分裂する。それぞれは独自に教学研究を進め、最終的には20ほどの部派に分かれる。
 大衆部系の部派では、修行一筋の教団(サンガ)での静謐な生活に飽き足らず、自己の悟りだけでなく、他人の救いの実現をもめざそうとする。これが在家信者の集団を中心とする改革運動となり、自らを“大きな救いの乗り物”である大乗仏教と称し、上座部系を小乗と呼んで軽んじた。
 大乗仏教では、釈尊の教えを深めたり、教えに新たな意味を見出したりして、出家者のみならず在家でも救われることを標榜する。民衆になじみやすい人格神的な諸仏を生み出したり、現世利益の傾向を強めたりする傾向を持つ新しい仏典を生み出す。そのなかで主なものを順に取り上げる。

 南インドの仏教僧であったナーガールジュナNāgārjuna/龍樹(AD 180~240)は『中論』を著し、関係性によって生ずるという「縁起」の思想を「空」と捉え返して「万物の根源は空」とする教説を立てた。「中観派」の祖師となり、大乗仏教の創始者とされる。
 この世の万物は本性において実体があるものではなく、存在するものすべては因縁によって、諸条件が合わさるなかで存在する。実体として自性があるのではなく、本性は「空」であるから、執着することはない。
 悟りの彼岸にいたる修行徳目として、六波羅密Pāramitā を掲げ「布施、持戒、忍辱(にんにく=堪え忍ぶこと)、精進、禅定、智慧」の6項目を示した。そのなかで“智慧(=般若)の完成”をもっとも重視した。海印寺・大蔵経.JPG
 これらに関する経典は600巻あるとされ「大般若経」「金剛般若経」などにまとめられた。「般若心経」はそのエッセンスで「色即是空 空即是色」の誦句で日本人に親しまれ、浄土宗系を除いた多くの宗派で読誦される。(写真は韓国・海印寺で掲げられる経文)

 「維摩(ゆいま)経」は、在家の資産家である維摩(「清浄」の意)居士を主人公とする物語であることから、その名がある。AD1~2世紀に成立したと推定され、出家者でなく、世俗のなかに優れた人物がいることを称揚する。
 仏典では「空」の思想を敷衍して「不二の法門(ふにのほうもん)」を説く。輪廻も涅槃も本質において「空」であるとすれば、対立するかのように見える2つの概念も、本来は2つではない。善と悪、正と邪、迷いと悟り、生と死などのように対立する概念も「空」の世界においては、2項対立のない「不二」である。より高い次元から見れば、本質的に繋がるひとつのものである。
 とすれば悟りも俗世間から離れた別のところにあるのでなく、善と悪が混然する現実の人間生活のなかで、実現されるべきである。出家者のみならず、世俗者の生活も肯定されなければならない。

 「勝鬘(しょうまん)経」は、維摩教に少し遅れて成立したとされる。女性信者で王妃でもある勝鬘(「美しい花飾り」の意)夫人が説く内容を、釈尊が一々是認する構成をとることで、その名がある。
 新たに「如来蔵」思想を説いて、在家向けの仏教を宣明する。すべての人には如来(仏)に成るべき資質が胎児のように蔵されており、在家者も悟りを得られると教える。
 我が国には早く伝わったようで、飛鳥時代の7世紀初めのものに『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)がある。法華経・維摩経・勝鬘経の3仏典の講義書(注解書)で、そのうち『勝鬘経義疏』が最初に成立したとされる。聖徳太子がこれらを著したとする説があるが、異説もある。

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仏教の展開

 釈尊の教えは、ガンジス川の中・下流域で交易や手工業を担ったクシャトリア層を中心に広がった。釈尊の入滅後、間もなくにして仏典結集が行われるほどの勢いがあり、南伝仏教(上座仏教)側の資料によると、第1回はBC477年、第2回はBC377年である。

 多民族が共生するインド亜大陸は、マウリヤ王朝(BC317~BC180)によって初めて政治的統一がなされる。ガンジス川中流域のパータリプトラ(華氏城)を首都とし、この地の出身であった初代王のチャンドラグプタ(在位BC317~BC 293頃)は、晩年に出家してジャイナ教の行者になったという。
仏塔 サールナート.JPG
 第3代のアショーカ王(阿育王 在位BC268-BC232)のとき最大版図となり、亜大陸のほぼ全域を支配した。王は権力簒奪とデカン高原の征服にあたって苛烈であったことを反省し、即位後8年に仏教信者になった。「ダルマ・法」による支配をめざして仏教色の濃い碑文を残し、多くの仏塔を建てた(写真は釈尊が初めて法の輪を転じたサールナートに建つ仏塔)。ただしジャイナ教やバラモンの教えの保護も宣言し、仏教に偏することはなかったという。
 即位後13年に仏教使節5人をギリシャ方面に送ったが、根付くことはなかったようだ。そのころ仏教は南インドへも広がり、AD244年に第3回の仏典結集が行われた。

 アショーカ王の没後、約50年にしてマウリヤ王朝は滅び、小国分立の時代となる。
 亜大陸の東にあったカリンガ朝のカーラヴェーラ王(在位BC209-BC170)はジャイナ教を保護した。東北部で興ったシュンガ朝(BC180-BC 65頃)の初代王は仏教を弾圧し、バラモン教を保護した。
 西北部ではマケドニアのアレクサンドロス大王の征服後、ギリシャ人が進出した。パンジャーブ地方を治めたメナンドロス(ミリンダ)王(BC155-BC 130)の時代の遺物には、法輪を刻した金貨や王の名前入りの舎利容器がある。その後は、遊牧民のサカ族、中央アジアにいた月氏族、イラン系のパルティア族などが進出した。

 さらに月氏系またはイラン系とみられるクシャーナ族が台頭し、亜大陸の西北部を中心としてクシャーナ朝(AD45~500頃)を開いた。歴代の王は文化的・宗教的に寛容で、仏教は大乗仏教の全盛期となり、ジャイナ教やバラモン教も刺激されて発展する。シヴァ神やゾロアスター教の遺跡も残り、文明の交流地であることから、東西文化の融合が進む。
釈迦座像 ガンダーラ(東博).jpg
 第4代のカニシュカ王(AD144∼173)のとき最大版図となる。王自身はゾロアスター教徒であったとされるが、仏教側は保護されたことを記憶する。仏典結集を助け(AD150年)、仏教詩人と交わったことが仏典に記されるほか、壮麗な仏塔を建て、釈迦像を刻んだ金貨が残る。
 現在のアフガニスタン東部にあたるガンダーラを中心に仏教美術が栄え、それまで釈尊をイメージするものは仏足跡・法輪・菩提樹であったが、ギリシャ彫刻との融合で仏像が造られた。(写真はガンダーラの釈迦像/東京国立博物館)

 イラン高原の東部が仏教圏であったので、大乗仏教(マーハヤーナ)Māhāyāna において生まれた阿弥陀仏、弥勒菩薩、観音菩薩はゾロアスター教の神々が採り入れられたもの。さらに弥勒信仰はメシア(救い主)思想の影響であり、浄土信仰は西洋の楽園思想の反映であろうという。この教えが中国を通じて、朝鮮、ベトナム、日本に伝わった。
 いっぽうスリランカには、マウリヤ王朝のアショーカ王のとき、マヒンダ王子が僧侶らと来朝したとの伝承が残る。ここが上座仏教(テーラワーダ)Theravāda の源流となり、東南アジアなどインドと風土が類似する一帯に広がった。
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釈尊の悟り

 ゴータマ・シッダールタ Gautama Śiddhārthaは、16ヵ国が並立するカンジス川中流域で、4大国のひとつのコーサラ国に従うシャーキヤ族の王子として生まれた。結婚して男児を設けたが、人生に生病老死という免れ得ない「苦」があることを嘆じ、29歳のとき出奔した。修行と瞑想の生活に入り、自由思想家に混じって無神論・不可知論・因果応報論などに触れ、苦行にも身を投じたであろう。35歳のとき菩提樹の下で大悟し、各地を伝道して、80歳で入滅した。
 生没年について、スリランカにはBC566-486年と伝わるが、我が国の仏教学者らはBC463-383年などとし、両説に100年ほどの開きがある。悟りを開いたのち、仏陀、釈迦、釈尊と呼ばれる。釈迦苦行像 建長寺.jpg

 釈尊が遍歴と苦行ののちに得た悟りは、まことに自然で、合理的ともいえるものであった。人生の「苦」の原因に関して洞察の限りを尽くしたが、生前からの“業”の蓄積によるものではない。生命の根底にある生存欲に発するものであり、苦行によって解消できるものではなく、かといって快楽の限りを尽くしても得られるものはない。(写真は建長寺の釈迦苦行像)
 こうした実体験から、辿るべき道は苦にも楽にも偏しない「苦楽中道」にあるとする。これが後述の「八正道」に繋がる。

 この世の認識について、輪廻転生や霊魂などに固定的な実体を認めず「諸行無常」「諸法無我」であるとする。万物は移り変わるものであり、本性的な実体をもつものではない。存在するのは関係性によって条件づけられ“縁りて起こる”仮の姿というべきもの。かくして「此れあれば彼れあり、此れ生ずれば彼れ生ず、此れなければ彼れなく、此れ滅すれば彼れ滅す」という「縁起の法」を説いた。
 縁起についてさらに徹底的な考察と観想を進め、人間存在の根底に「無明」という迷いと無智の状態があり、これから「生死」にいたる「十二支縁起」を見出した。「無明→行(衝動)→識(識別)→名色(対象)→六処(6つの感覚器官)→触(接触)→受(感受)→愛(渇愛)→取(執着)→有(存在)→生(誕生)→老死」と繋がる連鎖である。これによって生老病死の苦しみが生まれるのであり、「苦」から脱するには、この連鎖を断つよりない。

 以上を分かりやすく説明する手立てとして「四諦の法門(苦集滅道)」を説いた。「苦諦」とは生きることが「苦」であると知ること。「集諦(じったい)」とは縁起の法により「苦」の原因が渇愛にあると知ること。「滅諦」とは無常なものに執着する煩悩を断って、涅槃の境地に至ること。「道諦」とは正しい道を歩んで「苦」に遭わないようにすること。
 正しい道の実践法として、釈尊が実際に語ったかどうか定かではないが「八正道」を励むことが説かれる。「正見、正思惟、正語、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進、正念(正しい意識)、正定(正しい禅定)」の八道である。ここにおける「正」は妥当の意味に近いとされ「中道」に通じる。

 インドの思想には古くから“因果律”の考えがあった。バラモンの教えには「欲望→意向→行為→果を得る」という連鎖の記述がある。ジャイナ教は「怒り→高慢→偽り→貪り→妄執→嫌悪→愛欲→苦」という因果の連鎖を掲げ、これを断つべきことを説いた。これに対して釈尊は、人間存在の根底にかかる因果の連鎖を把握し「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」と宣明した。
 のちに高名な仏弟子となる舎利弗(サーリプッタ)と目連(モッガラーナ)が他の師の弟子であったとき、すでに仏弟子であった阿説示(アッサジ)から「釈尊の教えが縁起である」と聞いた。このとき両名は直ちに仏弟子になると決意したという話からも、釈尊の悟りの根幹が「縁起」であると察せられる。
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ジャイナ教

 ジャイナJaina教の開祖であるマハーヴィーラMahāvīra(「大いなる者」の意)は悟りを開いたのちの呼び名で、本名はヴァルダマーナVardhamānaである。ガンジス川中流域のクシャトリア出身で結婚してひとり娘をもうけたが、30歳のとき修行者の列に加わり、12年間の苦行ののち42歳で大悟し、72歳で入滅した。
 生没年はBC444~372ころとされる。ただし仏教開祖の仏陀と同様に、100年超の幅の諸説があり、どちらの開祖が先行するか不分明である。仏教側の資料に仏陀の存命中にジャイナ教の信者を仏教の側に転身させたとする記事があり、ほぼ同時代に活躍したのであろう、ジャイナ教寺院.JPG

 ジャイナ教の教えは霊魂の輪廻転生を認め、これからの解脱をめざす。それには厳しい修行により過去の宿業を滅し、新しい善の業の流入に努める。精神性を極限にまで高め、霊魂を浄化すると、清浄な魂の本性が現れる。ここにおいて業の流れが断たれ“業の身体”を滅し尽して、輪廻転生を脱する。(写真はインドのジャイナ教寺院)
 このためヨーガ、座禅、瞑想を行い、菜食主義や断食により節制に努める。悪業の流入因である欲望を断ち、生き物を殺さず、人倫を守る。ジャイナ教の“大誓戒”は、修行者が守るべき5戒で「非殺生、非妄語、非盗、非淫、非所有」とする。(仏教の5戒は在家者に対する戒めだが、最後の2つが非邪淫、非飲酒となる。妻との性交を認めるなどに違いがある)

 ジャイナ教は霊魂や輪廻の存在を前提とするが、各人の精励努力を要求するから思想界におけるヴァルナ(色)による差別を認めない。バラモンが奉ずるヴェーダの神々を前提としない無神論の立場であり、都市の商工業者らに受容された。牧畜社会と異なり、神に供儀すべき動物が減り、犠牲獣を確保するのが困難な状況下において歓迎された。平易な言葉で教えを説き、当時の俗語で経典を編んだことも、広く受け入れられる要因となった。
 紀元前6~5世紀のインドでは、バラモンが奉ずるヴェーダ聖典にとらわれない自由思想家が多数現れた。このうち仏教の側は自ら以外の有力な6派を「六師外道」と呼んだ。ジャイナ教がそれに含まれたので、仏教関係の文献に記録が残った。

 ジャイナ教のその後について、マハーヴィーラの没後の早い段階で信者間の意見の相違があらわになったようである。災害時の対応において、あくまでも厳格に「非所有」を貫こうとする信者と、寛容に考えるべきとする信者との間で分裂した。
 「基軸の時代」後の話になるが、AD1世紀に非所有を徹底して裸で過ごす人らを「空衣派」ないし「裸行派」と呼び、白衣をまとう人らを「白衣派」と呼ぶようになった。白衣派は女性の修行者を認めるが、空衣派は認めない。

 その後、ヒンズー教が優勢となるインドにおいて、教えが簡素であることやカースト制の一部を認めたことなどから、命脈を保っている。2011年のインドの国勢調査ではジャイナ教の信者が人口比0.4%とされ、約480万人となる。白衣派はインド西部に多く、空衣派は南部に多い。
 信者は非殺生を旨とするので、生き物を殺す機会の多い農業、牧畜、漁業、行商人と運搬人(長い旅路で小動物を踏み殺す危険がある)などに従事せず、伝統的に小売や金融業に従事したという。現在では、富裕な貿易商がインド各地にいるという。

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ウパニシャッド哲学

 紀元前7~6世紀のころ、インド亜大陸の繁栄の中心地はインダス川流域の半農半牧地帯から、ガンジス川中・下流域へ移る。多雨で肥沃な土地であることで農業生産が増え、商工業も発達する。諸部族が連合する小国家が割拠し、マガダ国など16国が並立する時代になる。
 人びとの信仰面ではバラモンが行うヴェーダ Veda 祭式の儀礼の繁雑化が進み、これに飽き足らない風潮が高まる。祭式の意義、神々、人間の生き方が問われるようになり、宇宙原理、存在論、認識論などの哲学思考も盛んになる。

 この頃までにインド人の死生観の根底にある「輪廻思想」が広がりをみせ、亜大陸の全域に定着する。この思想の由来は明らかではないが、生きとし生けるものの霊魂は不滅であり、死後も果てしなく輪廻 samsâra し、いずれの世にか転生するというもの。その間に業(ごう)karman が蓄積され、天国か地獄かに向かうとし、因果応報の結末は一生のうちに終わらない。
 人びとは驚きとともに恐れの気持ちを抱いたであろう。輪廻転生の宿命から霊魂を解放するにはどうすればいいかが課題となり、公開討論なども行われる。師子相伝される奥義書として「ウパニシャッドUpanişad」と呼ぶ哲学書が作られる。ウパニシャッドの意味には諸説があり“近座”の意で弟子が師匠の近くに座ることであるといい、また“同置”の意で宇宙と各個とを同じ位置におくことであるともいう。

 先の課題については、次のような論理が展開された。
 ヴェーダ聖典などの多くの神々について、これらを超越する宇宙の魂としてブラフマン brahman「梵」が構想される。これが種多様な森羅万象の背後にある唯一なるものとされ、各個の魂であるアートマン âtman「我」との関係や性質が探究される。アートマンの本性がブラフマンと同一であるという「梵我一如」の真実智を得たとき、解脱 mokşaに到り、輪廻転生から脱することができる。
 真実智を得るのは容易なことではない。苦行と瞑想により超越的な自己を会得するとか、ヨーガyogaの技法により肉体と精神を制御するとかに精励する苦行者が現れる。森にこもったり、出家遊行したりに取り組めない民衆には、禁欲と善行により善因善果を得ること、また悪事による悪因悪果を避けることが勧められた。

 実際に、ブラフマンとアートマンの同一性を体験主義的に著したとされるウパニシャッドの書には、たとえば次のような記述がある。
 「心臓の内部にある私のアートマン…それは米粒よりも、麦粒よりも…小さい。しかし大地よりも大きく、空よりも大きく…一切の行為を内包し、…超然としているもの。これが心臓の内部にある私のアートマンである。これがブラフマンである」(『世界歴史体系・南アジア史Ⅰ』山川出版社 宮元啓一 論文「シャーンディリアの瞑想知」より)

 さまざまの思索や修行法が考究され、今日において因果応報論、無因無縁論、宿命論、偶然機会論、懐疑論、唯物論、快楽論などと呼ばれる思想の百花斉放状態が現出する。これらのなかに、ヴェーダの権威を前提とせず、したがってバラモンの立場にとらわれないで、自由に議論を展開する者が多数現れる。仏教関係の文献に「62見」(62人)の自由思想家がいたとするものもある。これらのなかからジャイナ教や仏教が生まれた。
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ゾロアスター教

 20世紀のドイツの哲学者であるカール・ヤスパースは、世界史の紀元前800~200年、とくに紀元前6~5世紀を「基軸の時代」と呼び、ここに人類の精神史において大きな意義を見出した。この時代における思想面の具体的成果を、おおよそ古いものから順にとりあげていこう。

ゾロアスター.jpg 時代的にもっとも古いのはイラン(ペルシャ)高原におけるゾロアスター教である。開祖はザラスシュトラZaraӨuštra (ドイツ語読みはツァラトゥストラ)とされるが、生没年はBC12世紀ともBC660?~583?ともいう。おそらくBC12世紀に教義の原型が歴史的に現れ、BC7世紀にアーリア人の一派であるペルシャ人が強盛になったとき広がった。
 イラン高原の信仰形態はアーリア人が持ち込んだ神々への聖火儀式であったが、ゾロアスター教は倫理観にもとづく宗教を説いた。アフラ・マズダ(賢明なる神の意)が全知全能で唯一の最高神であり、宇宙のすべてを創造する。これから善霊(スプンタ・マンユ)と悪霊(アンラ・マンユ)の2神が生まれ、世界は善悪の2神が戦う「善悪二元」の場になる。人の思考や行動はどちらかの神が支配するところとなり、各人は自由意志によりどちらかを選べるが、どちらかを選ぶ義務もある。ただし選択の結果は、死後における「最後の審判」で天国か地獄かへ振り分けられる。

 ゾロアスター教が、その後の諸王朝にどう受け入れられたかに関する記録は限られる。
 アケメネス(ハカーマニシュ)朝ペルシャ(BC525~BC331)が、イラン高原で興った最初の帝国である。現在の地名によると、東はパキスタンから西はトルコまで、北はカスピ海から南はエジプトとリビアまでの大版図を築いた。
 初代皇帝のキュロス(クル)2世(在位BC559~BC530)は宗教に寛容で、バビロンを占領した際、捕囚されていたユダヤ人を解放し帰還させた。これが契機となり、ユダヤ教の聖書に救世主、最後の審判、天国と地獄の話が取り入れられた。
 3代皇帝のダレイオス(ダーラヤワウ)1世(在位BC522~BC486)は、多民族を擁する広大な領土を統べるため、公用語の制定(文章語としてアラム語とエラム語)、王の道の建設、地方州に行政総督の配置、総督を監視する王の耳(監察官)の巡回、ダリーク貨幣の鋳造、度量衡の統一などを行った。また、しばしばギリシャと戦った。
 宗教に関しては、アフラ・マズダの加護により戦争に勝利した、諸王はゾロアスター教に帰依したが住民には強制しなかった、信仰に結びつく慣習が社会に定着したなどと記した碑文がある。

 以下は「基軸の時代」以降のことになるが、ここで素描しておく。
 アルケサス(アルシャク)朝パルティア(BC247~AD330)は、イラン東北部にいたアーリア人の一派が建国し、ミスラダテス2世(BC123~BC87)のとき最大版図になった。宗教問題にはあまり関与しなかったため、キリスト教や仏教の信者が増える傾向にあった。これに対するゾロアスターの祭司らの不満があり、このことが王朝の滅ぶ要因のひとつになったという。AD55と77年にゾロアスター教の経典である『アヴェスタ』を結集したとの記録がある。

 ササン朝ペルシャ(AD224~651)は、始祖がゾロアスター教の神官であったとされ、AD230年にゾロアスター教を国教とし、これが世界最初の国教制度の導入であるという。教義にもとづく暦の変更、偶像の破壊、聖火の強調が行われ、各地に聖火の拝殿が建立され、農耕地が寄進され、祭司の地位向上が図られた。人生の通過儀礼や慶弔行事には、従来の慣行にくわえ、ゾロアスター教の要素が加わった。西方から伸長してくるキリスト教勢力に対抗して経典が結集され、王朝末期にはゾロアスター教の祭司が政治を牛耳るほどとなって他宗教を弾圧した。

 イスラーム軍の進攻によって7世紀にササン朝が倒れると、イラン高原の宗教はイスラーム化が進む。ゾロアスター教の信者はインドに逃れ、パールスィー Parsi(ペルシャから来た人の意)と呼ばれる。現在、ヒンズー色を取り入れつつ聖火儀式や曝葬(鳥葬)を維持する者が、ムンバイを中心に数万人いるという。

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“基軸の時代”

 部族や民族がそれぞれの精神的支柱を打ち立てつつ、政治的・経済的な結束を強めて互いに競い合う時代が訪れた。このときの世界で、文化・文明が交錯する地域において、宗教面で画期的な成果が生まれた。
 ドイツの哲学者のカール・ヤスパースKarl Jaspers(1883~1969)は、世界史に中心軸を設定するとき、紀元前800~200年の間、とくに紀元前6~5世紀の精神的な過程と現象に独特の意味を見出し、この時期を「基軸(枢軸)の時代」Age of Axeと名付けた。今日もなお人類の精神史は、このときの成果を中心軸として回っているという。
 ヤスパース著の“Vom Ursprung und Ziel der Geschichte”(1949)/『歴史の起源と目標』重田英世訳)から、この時代を表わす章句を引用すると次のとおり。

 「紀元前800年から200年の間に・・・驚くべき事件が集中的に起こった」
 「中国、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、ほぼ同時的にこの数世紀のうちに発生した」
 「人間が、全体としての存在と人間の限界を意識した」
 「人間が、自己の最高目標を定めた」
 「思考の枠組みとしての基本的範疇と世界宗教の萌芽が生まれた」
 「3つの地域全部に、ある類似の社会的状態があった。そこでは無数の小国家や都市が鼎立し闘争しあっていた、しかも驚異的な繁栄と力と富の展開が可能であった、内部における相互交流の結果、精神運動が広められた」

 かいつまんで言うと、次のようになるであろうか。
 中国、インド、西洋の3地域では農耕の発展と都市の形成により繁栄の段階にあったが、政治的には混乱としていた。そうした社会情勢を背景に人類の精神運動が高まり、人間存在に関する思想的成果が生まれた。人びとの信仰が単なる祭式や呪文などの儀礼ではなく、倫理を踏まえた宗教となり、それをもとに世界宗教が生まれた。
 世界史が段階的に進むという視点に立つと、単純に発展とか衰退とかに向かっているのではない。現代は物質的に非常な進歩を見せているが、精神的な発展という意味ではいまだ基軸の時代に及んではおらず、人類の精神史はいまもそのときを軸に回っている。

 なお、このとき3地域が相互に知り合うことなく、類似の社会情勢にあったことで同じ成果が生まれたとする点が注目される。その背景について「気候変動」を指摘する向きがあり、たとえば宮崎正勝(北海道教育大学教授)著『風が変えた世界史』(原書房 2011.8)は「BC800-BC400は寒冷期であり、夏雨地帯が南下していた」ことを指摘する。
 気候変動があると、各地域における人びとの生活条件は大きく変わり、社会内部の矛盾は顕在化し、集団間の闘争が激化する。民族間の対立は、文化相互の摩擦であり、根底に信仰の混沌がある。これを打開するため、人びとが精神的な高みを目指したということであろう。
 ちなみにこのときの日本列島は、縄文時代から弥生時代への移行期にあたる。気候変動が移行を促進した要因のひとつの可能性があるが、このとき中国大陸で周王朝が衰え、覇者が相克する春秋戦国時代になった。気候変動を機に広がった社会の混乱があり、これを避けた人びとが朝鮮半島から日本列島へ向けて移住したという筋書きかもしれない。

 ところでヤスパースは、基軸の時代の具体的成果として「中国の孔子や老子、インドのウパニシャッドの成立と釈迦、イランのゾロアスター、パレスチナの預言者、ギリシャの哲学者」を挙げる。次項以降に、順次、取り上げよう。

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民族宗教の成立(2)

 引き続いて東南アジアから西アジアにかけて、次のような民族形成が進んだ。

 インドシナ半島はインド (indo) と中国 (Chine) の間に位置することでその名がある。マレー半島の部分を除けば幅が広い半島で、いまベトナム、ラオス、カンボジア、タイなどに分かれるが、かつてはクメール民族によるアンコール帝国がほぼ全域を支配し、12世紀が絶頂期であった。熱帯季節風気候のもとでメコン川などの水量に恵まれて水田稲作と漁業が発展し、アジアの東西を結ぶ海上交通の要路にあって国際交易都市が発達した。
 インドのガンジス川が流れる先にあって、早くからインド文化の影響を受けた。土着の精霊信仰とインドの王権思想が結びついたようで、インドから来たバラモン僧(司祭)と蛇王の姫(ナーギー)が結ばれて王朝が生まれたとの伝説がある。サンスクリット語の碑文、青銅の天神像、重層の王宮、杭上の庶民住宅、ため池、闘鶏や闘豚、熱湯に手を入れる神裁という文化様式を発達させた。ただしインド文化の受容は選択的で、バラモン僧がいない、女性の地位が高い、カースト制がないなどの特徴をもつ。 

 インド亜大陸では、紀元前1500年のころ、ドラヴィタ人が住んでいたところへ北方からアーリア人が侵入した。土着と外来の文化が混淆して特有のインド文化が固まるのは、紀元前後とされる。新来のアーリア人は土着民との区別のため、ヴァルナ(色)に基づく階層制を持ち込み、のちのカーストの原型を作った。
 最高の階層にいるバラモン僧は4つの「ヴェーダVeda聖典」(知識の意)を保持し、多くの神々に対する讃歌、呪文、神話などによる信仰形態を持ち込んだ。神々には、太陽、月、大地、河、空、雨、暴風、火、水などの自然を神格化したもののほか、戦い、癒し、神酒、混沌などさまざまの役割を担ったものがあり、後世に多数の神々を擁するヒンズー教が定立する基盤となった。
 祭祀においては、作物や生け贄を火中に投ずる「火投」が神と交わる重要な手段とされ、のちの密教における「護摩」の祖型になった。ヴェーダを記した文字は、サンスクリットという聖なる言語に発展した。

 インド西方のイラン高原(ペルシャ)へも、紀元前2000~1500年ころに北方の南ロシア地帯から遊牧民のアーリア人が侵入した。低地の渓谷などに住みつき牧畜や農牧を生業としたが、当時の宗教事情はよく分からない。彼らは文字を持たなかったため口誦で伝わったものに限られるし、地域ではのちにゾロアスター教が国教となり、さらにスンニ・シーア両派のイスラームを時代ごとに受容した。その間に既往の資料は失われたであろうし、他宗教を受容する柔軟性を示したのを見ると、確たる民族形成がなされなかったのかも知れない。
 おそらく超自然的な力を神格化した土着信仰があるところへ「ヴェーダ聖典」に基づく多神教の神々への祭祀が持ち込まれた。マギと呼ぶ特定の部族出身者が聖火のまわりで秘儀を執り行い、生け贄を供えて火で焼き、神々の怒りを鎮める呪文を唱えるなどが行われた。彼らは天文や医術にも長けており、自制心を失わせる生薬を用いて、真理への思索を深めたり、戦士の戦闘心を高めたりを試みた。

 ユダヤ人の集団は、紀元前12世紀のころに奴隷状態にあったエジプトから抜け出し(出エジプト)、約40年間にわたってシナイ半島の荒野などをさまよった。その間、モーゼの指導のもとで、アブラハムを始祖とする血統のもとにあり、唯一神であるヤハウェYHWH の命令に従うのが救済への道であるとの信念をもつ宗教共同体になった。
 カナンの地(パレスチナ)に住みついたあとも、紀元前10世紀の南北両王国への分裂、その後の両王国の滅亡、紀元前6世紀に主だった者らがバビロンに連れ去られ50年間ほど留め置かれる(バビロンの捕囚)などの歴史を経るなかで『旧約聖書』の原形となる信仰物語を固めた。洪水神話、バベルの塔などはメソポタミアの神話であり、死後の審判、天国と地獄、救世主の到来はゾロアスター教の教えに通じる。食物規定、安息日、割礼、淨・不浄などに関する律法もしだいに定められた。

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民族宗教の成立(1)

 家族・親族という血縁関係に地理的な結びつきの地縁関係が加わり、狩猟・漁労・採集という生活の資を得る活動の関係が繋がって、より大きな集団の部族が生まれる。さらに農耕が始まると、栽培や収穫に関する情報交換あるいは開墾や灌漑などの共同作業などを行うため、河川の流域や盆地など一定の地域に集住するようになる。
 このように集団が広域的かつ大規模になると、宗教事情が一変する。いくつかの親族や部族が混住し、職務や階層を異にする人びとの接触が深まって、利害が錯綜する。政治的・精神的結びつきをより強固にする必要に迫られる。自然崇拝では崇める自然物が異なる場合があろうし、祖先崇拝では共通の先祖をたどれない。従来の自然崇拝や祖先崇拝では人びとを糾合できないから、新しい精神的支柱を打ちたてなければならない。

 このとき生み出されるのが共通する始祖伝説であったり、諸部族の統合や戦いにおける英雄物語であったりする。これらの筋書きに登場する人物・場所・祭壇などが尊ばれ、共通の説話や祭祀をもつ集団が生まれる。この間、共通の言語が発達し、生活様式や行動様式の共通化も進むであろう。
 言語、歴史、習俗、道徳、宗教などのライフスタイル life styleを共有する集団を「民族」という。民族の形成には経済的利益を共有することはもちろん、地理的条件も大きな要素になる。島嶼であるとか、限られた半島であるとか、広い大陸にあっても面積が限られた盆地であるとか、同一の河川の流域であるとか。人びとが集住する地理的条件に、一体性をもたらす要素があることも重要である。
 東アジア地域において、確たる民族が形成された一例を挙げると、次のとおり。

 日本列島では「古事記」「日本書紀」などがつくられた。その歴史書に、天地開闢において天上の神々が島々から成る国土を創成し、幾柱かの神様が天下って人びとを増やし、穀物を生み出して農耕社会が生まれたことが記される。ここではアマテラス大神・スサノオ神を初め八百万の神々が活躍するが、神々は人びとの求めに応じて依り代である磐座や大木などに降臨する。これらを祀り祈ることが、日本独自の宗教である「神道」の原型となる。
 神々の物語には、天孫降臨、天の岩戸、ヤマタノオロチ、因幡の白兎、大物主神など、出雲や日向を初め、各地に伝わる民話が統合される。くわえて国譲り神話があり、天皇の祖先による列島征服の説話が綴られ、各地に盤踞した諸勢力の統一と融合が図られたことが示される。

 朝鮮半島には「檀君神話」がある。天帝の子孫である桓雄(ファヌン)が、いまの中朝国境にある太白(テベク)山に降臨し、熊からヒトに変身することを望んだ女性との間に檀君(ダンクン)が生まれる。檀君が古朝鮮の初代の王になったというから、恒雄部族と熊部族の2勢力が民族的に結合したことが示唆される。その後、この神話に登場する箕子(きし)が箕子朝鮮を建て、さらに「燕」に仕えた衛満が半島に赴いて衛氏朝鮮を立国したという。
 その後、中国大陸で「漢」「魏」が興って、楽浪郡など4郡また帯方郡を設けて支配するが、やがて半島北部で興った高句麗がこれらを退ける。南部では馬韓・辰韓・弁韓に分かれていた80余の小国が百済と新羅に併合される。高句麗、百済、新羅の3国はそれぞれ異なった始祖伝説をもち、数世紀にわたって拮抗と抗争を続けるが、684年に新羅による統一が成り、同族意識が育つ。

 中国大陸では、各方面からの文化が交錯する地理的位置にある「中原」と呼ばれる黄河流域で創世神話が誕生した。世界は混沌状態にあったところに息吹(気)が生まれ、陰陽二極と木火土金水の五行の働きによって、至上神たる「天」が生まれる。天の意志(天意)を聞くため天子(皇帝)の役割が強調され、それを根拠に「三皇五帝」の神話が生まれる。人民に対しては天意(宇宙の理)の流れを乱さないよう、無為自然が説かれる。
 「三皇」とは、伏羲(フツキ)、女媧(ジョカ)、神農(シンノウ)と呼ばれる3人の王で、前の2者は“蛇身人首”後の1者は“人身牛首”というから、異なる集団の融合を示唆するであろう。その後を継ぐ「五帝」とは、黄帝、堯、舜、禹などの5人の帝王で、農耕と治水に大きな治績を残したという。天意を読み解くため、火に投じた亀甲の裂け目を読み解くという卜占の蓄積から漢字が生まれ、天文暦数も発達する。

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部族宗教の高まり

 原始社会における人間集団は、家族や親族などの血縁関係に始まり、地縁的繋がりも含めたより大きな集団となり、部族などと呼ばれる。この過程において他集団と争う場面が増え、自然発生的であった自然信仰や祖先信仰が強化される。科学ジャーナリスト(米)のニコラス・ウェイド Nicholas Wade は、最近の遺伝学の成果を踏まえて、このあたりの事情を次のように書く。(『5万年前ー-このとき人類の壮大な旅が始まった Before the Dawn 』沼尻由紀子訳 East Press社 2007.9)
 「発生当初の人類は、家族や親族単位などで集団を形成するが、他の集団との縄張り争いが起こる。そこで集団の結束を固めて縄張りを護るために、祖先信仰などの形で宗教を生み出した。宗教は集団をまとめるのに役立ち、縄張りを強く護った集団が発展したであろう」

 狩猟・漁撈・採取によって入手できる大小の獣類や魚類、採取可能な堅果や植物の根などの自然資源は限られる。彼らは遊動しつつも定住して、近くに賦存する資源に依存し、自然に縄張りを形成する。縄張りをめぐって争いが起こると結束して護るが、このときに自然信仰や祖先信仰がいっそう強化・充実されるのだという。部族集団ともなると、単純な祖先信仰のみでは人びとを糾合できないであろう。
 各集団の精霊信仰や呪力信仰の対象は、山、海、大河、大木、巨岩など巨大なエネルギーや呪力を観念させる自然物とか、ジャガー、獅子、ヘビ(龍)、トラ、クマ、オオカミなど獰猛な動物とかに向かう。
 その典型が祖先信仰の一形態である「トーテミズム totemism」である。アメリカやオーストラリア大陸の先住民を初めとして、各地の部族社会で観察される。熊、牡牛、男鹿、鷲、蛇、トカゲなどの動物、あるいはオーク、イチイなどの植物を選び、自らの集団がこれらと呪術的に親縁であるとし、選んだものの殺害や安易な接触を禁じて集団の掟とする。他集団との違いを明確にするため、トーテム・ポールなどの標章を立てる地域もある。

 信仰対象をより明確にイメージできるよう「擬人化」が進み、偶像が生み出されたであろう。女神像は生命・生殖・繁殖を象徴するものとして早くに具現化していたが、オスの原理は男根・ヘビ・牡牛などと結びついた。幽霊・妖精・天狗などは魂や精霊を擬人化したものだし、巨人や最高神さらには世界を創造した人格神を構想して「天の主」を誕生させた集団もある。
 自然宗教の象徴化・神格化が進んで、多種多様な神様が生まれた。人間の姿をした神々として、日本では八百万(やおよろず)の神々が知られる。インドヨーロッパ語族に属するインド、ペルシャ、ギリシャ、ケルト(ヨーロッパの中央部で紀元前に部族社会を形成した)などの人びとも、数多くの神々を生み出した。

 ところで「宗教の起源」については、このほかにもさまざまの所説がある。
 集団生活のなかで芽生え・培われることになった道徳心や利他心が根本であるとか、知性の発達にともなっても合理的に説明できないことに根拠を与えるためにカミが考え出されたとか、不完全な存在である人間が完全な己の姿を投影してカミを作り出したとかである。
 なるほど、これらは宗教心を支える精神的な根拠や理屈というべきもので、それに基づき宗教が人びとに普遍化した。ただし何らかの宗教慣行が生まれたとき、これを強化・高揚するのは「縄張りを維持するため」「集団内の結束を図るため」など、集団への帰属意識とするのが理解しやすいであろう。
 宗教心が起こるのは純粋に個人的な事情であっても、独学に限るのでなければ、何らかの宗教団に属する。集団はそれぞれの方向性をもち、組織への帰属意識の高揚を期待する。宗教と帰属意識とは、しばしば強い結びつきを発揮して大きな力となり、個々人を圧倒する。押し流されないように、十分、心すべきことである。
 新興宗教のグループ同士の争いは、今日においても厳しいようだ。昨今の文明衝突現象とされるキリスト教世界とイスラム教世界の対立も、双方間における拮抗と闘争の経緯を視野に入れなければ、なかなか解けない。

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自然宗教の誕生

 今回から、宗教論を展開します。

 「生きる目的は何か」「世の中はこの先どうなるのか」など、我々の人生や世界の前途は不分明である。多くの人びとにとってこの世は見通し難く、解明不可能な問いに満ちている。このため、宗教への関心が絶えることはない。
 どのような人でも一定の努力を尽したあとは、どこかで思いを断ち切るよりない。可能な限りの追究を行ったあとは、何かに判断をゆだねることになる。自分に納得のいくものに気持ちをまかせて、あとは「祈る」のみである。「宗教など信じない」と豪語したところで、あらゆることを自らが差配し、結論づけることなど不可能である。
 というような経験があって、ヒトは人生のあるときに宗教に目覚める。宗教への造詣を深めることは思想を豊かにする。ただしどういう契機でどのような宗教に接するかによって、人生航路は大きく変わる。十分に心しなければならない。

 「宗教とは何か」について、正鵠を期したであろう裁判所の判例を引用すると、次のとおり。(津市 地鎮祭事件 名古屋高裁判決 昭和46年5月14日)
 「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」
 どうやら目に見えない世界(超経験的実体)を信じることのようである。これはいかなる民族にも共通する普遍的な感情で、現在、狩猟採集の生活をおくる未開社会の人びとも宗教心を持っている。このことがフィールドワークを行う文化人類学者によって報告される。

 現代人にとって世の中は不可思議に満ちているが、未開社会ではもっと深刻で差し迫った問題であった。生きるために狩猟・漁撈・採集によって食糧を得、やがて農耕に取り組むことになるが、これらから得られる収穫はつねに不確実・不安定である。天変地異があり、収穫の好不況があり、こうした変動は予測不可能である。見通しがたい自然条件に依拠しており、変化の原因や見通しは理解を超えている。
 太陽、月、金星などの天体は、ときに不可思議な動きをする。風、雷、雨などの自然現象は恵みをもたらすとともに、災害の対象でもある。狩猟の対象である牛、鹿、ラクダ、ヌビア・アイベックス(砂漠のヤギ)などの獣類、海で獲れる魚介類、採集する堅果類や植物の根などは「祈り」をもって収穫する。
 自然は恵みを与えてくれる一方で、危険や破壊の原因である。自然には尊崇の念とともに脅威を感じ、賞嘆とともに畏れの対象である。自然現象の有為転変を見守るうちに、自然物のなかに霊魂や精霊などの精神的要素を感得して「精霊信仰(アニミズム)」が生まれる。アニマとはラテン語で生命とか魂とかを意味する言葉である。

 さらに自然の動きのなかに神秘的なエネルギーや力(呪力や霊力)などを観取し、これらに祈る「呪力信仰(マナイズム)」が生まれる。諸力が行き交う超自然的領域との交信や交渉の必要性が感じられ、力能を有すると信じられる職能者が選ばれて、シャーマン(霊能者、呪術師)となる。
 マナとはポリネシア語で「聖なる力」を意味するという。シャーマンの語源はツングース語のサマン(知識があるもの)であるとも、インドのシュラマナ(遊行者、沙門)に由来するともいう。
 このような自然に対する信仰に関連して、さまざまの段取りや儀式が生まれる。自然の恵みを得るには、祈るヒトの側にも交換条件として犠牲が必要であると観念され、供え物が創案される。状況に応じてヒトの自傷行為が薦められ、人身供儀にいたることもある。
 かくて一個の祈りのシステムとして「自然宗教」が誕生する。

 自然物における霊魂の存在が意識されると、ヒトの「死」に際しても霊魂の行方が問われる。死者の蘇りや再生が祈られたり、死後の世界への旅立ちが観念されたりする。死は穢れを感じさせるから、扱いを誤れば祟りや悪霊に転ずる畏れもある。死者を丁重に扱い、畏れ、敬い遠ざける手順として埋葬儀礼が発達する。
 遺体に食料を供えたり、護身用の石器や矢筈を副葬したりするのは、不自由のない旅立ちを願うものであろう。胎児のように縮こまった体勢で埋めたり、東枕にして日の出のエネルギーを得たりするのは、死者の再生を祈る行為であろう。我が国の古墳様式で、古くは埋葬施設が東西方向に設けられたのは、ここに起源があるのではないか。
 東アジアでは、一定の時期に死者の魂を呼び起こす招魂の慣習ができた。祖先を尊び、その魂を呼び起こして、その力やエネルギーに頼もうとした。
 かくして死者を丁重に扱い、祈る儀礼が定まり「祖先信仰」が生まれた。
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瀬戸内海の島々の古墳

 瀬戸内海の讃岐の島々にも、製塩や舟運に関与したと推測される古墳が数多くある。そのなかで一定の規模があり、注目されるものを取り上げる。

 「富丘古墳群」(土庄町渕崎)は、小豆島から南西に突き出る半島の付け根の富丘丘陵にある。島内ではここに古墳が顕著に集中し、古墳時代前期後半から中期前半にかけて築造された10数基がある。丘陵頂上の富丘神社の本殿裏にある「富丘頂上古墳」が盟主墳で、南方にエンジェルロードのある双子浦を望む。1945(昭和20)年に高射砲を設置するため掘り下げたところ、大きな石組にあたりそのまま埋め戻されたという。
 径20mほどの円墳と見られ、埴輪未確認。墳頂に竪穴式石槨[4m×1m]と箱式石棺[1.64m×0.54m]の2基が東西に並び、兄姉が葬られた可能性が高いという。竪穴式石槨に銅製品として(仿製)四乳四獣鏡1、銅鏃2が、鉄製品として鉄刀2、鉄剣2、鉄鏃6、鉄斧2、鑿1、鏨(たがね)1、不明鉄器があり、合わせて18点と副葬品が多様であった。箱式石棺には副葬品なし。4世紀後半の築造を推定。P1030777 沙弥島.JPG

 坂出市沖の沙弥島は1967(昭和42)年の埋め立て事業により内陸とつながったが、当時は沖合2.5kmにある島であった(写真)。島の北東部のナカンダ浜からは、縄文土器、石器、製塩土器が出た。
 「沙弥島千人塚」(坂出市沙弥島南通り)が、島の南西部にある権現山(吉野山とも、標高28m)の西端にあり、中・西讃の港や島々を遠望する。辺[14×12m]/高さ約1.5mの方墳で、花崗岩の列石が2段にめぐった。昭和30年代の台風襲来のとき中央東寄りから小口積みの竪穴式石槨(長軸が南北方位)が現れ、埋め戻したという。その折に、鉄剣(長さ35cm)1を出土した。
 周りに11基の小墳がある。2基は同じ中期古墳とみられるか、他は横穴式石室などを擁する後期古墳で、釣り針や製塩土器を副葬したものがあった。
 沙弥島では、このほかにも後期古墳がいくつかあり、ナカンダ浜の西の山にある「白石古墳」は原形をよく残し、須恵器・金環・師楽式土器を出土した。

 「女木丸山古墳」(高松市女木町)は、高松港の沖合4kmにある女木島(通称・鬼が島)にあり、鷲の峯(標高187.2m)とツツコ山(通称)の間の鞍部の標高90mにある(写真)。
女木島 (2).jpg 径14.5m×16m/高さ0.8mの楕円形墳で、近くで採れる玄武岩の角礫の葺石があった。組合せ箱式石棺[長さ2.8m×幅0.52m×深さ0.28m]から朝鮮半島製のハート形垂飾付き金製耳飾り(長さ43.8cm)1対のほか、鉄製大刀(106.1cm)1、鉄鎌(23.1cm)1を出土した。5世紀末から6世紀にかけての築造。
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」と書く。(『海の向こうからみた倭国』講談社現代新書 2017.2)
 「中戸古墳」が鷲の峯の北側中腹にあり、墳形不明で、組合せ式石棺がある。碧玉製勾玉1を出土した。

 ほかにいくつかの島々にも古墳群や石棺群がある。海への眺望に優れた位置にあり、製塩土器をともなうものが多い。ある程度、実態が明らかなものを挙げると次のとおり。
 直島本島の北西部にある風戸山の西中腹に「風戸山西古墳」(直島町宮之浦)がある。2段に列石が巡り、辺10m以下の方墳とされるが、詳細不明。
 直島本島の西方にある葛(かつら)島(直島町)に、5世紀後半から7世紀半ばの箱式石棺47基 が、3地区に分かれてある。
 直島本島の北方にある喜兵衛(きべえ)島(直島町)に、6世紀中ごろから7世紀にかけて築かれた横穴式石室墓17基などがあり、製塩集団が築いたものという。
 坂出市沖16kmにある櫃石(ひついし)島(坂出市櫃石島)は、瀬戸大橋の橋桁が設けられた島として知られる。製塩遺跡の近くに横穴式石室2基と石棺3基がある。
 丸亀市沖9.9㎞にある本島の東端に「亀山古墳」(丸亀市本島町甲生浦)がある。カメヤマハナの最高所(標高21m)にある円墳で、安山岩製の竪穴式石槨[長さ1.65m×幅0.4-0.275m×深さ0.425m]から、直刀1のほか、瑠璃小玉、ガラス玉を出土した。同じ島内の南西部の小坂浦集落に「小坂古墳」(丸亀市本島町小坂)がある。集落から北西方向にある段々畑の頂部に、横穴式石室2基がある。
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樋端・神越古墳群

 原間古墳の東支群がある東丘陵から、東に分岐する丘陵一帯に2つの古墳群がある。いずれも原間古墳群と併行する時期に築かれた中・後期古墳である。(写真は『神越5号墳』東かがわ市教育委員会 2006.3より)原間・神越古墳群など.JPG

 「桶端(といばな)古墳」(東かがわ市白鳥桶端)は、東丘陵の東の裾部から北に突出する半島状の小さい丘陵(標高37-40m)にあった。牧場などとなって墳丘は削平されていたが、発掘調査で周溝を検出したことから、南北に並ぶ円墳2基を確認した。築造時期は5世紀後半(TK23)で、原間古墳群を築いた集団が築造地を東支群から西支群へ移す直前に築いたとみられる。桶端とは、かつて樋(とい)を掛けて通水した場所であったことを意味する。
 「1号墳」は径6.3mで、埋葬部は削平され検出できなかった。
 「2号墳」は径8.7mで、墳丘中央の土壙墓[長さ約2.59m×幅約0.7m×深さ約0.35m]から鉄刀1、鉄鏃4のほか、周溝から鉇1、鉄鏃1、銛(ヤス)2(1個体分)、鋤1、鍬先1を出土した。

 「神越(かんごし)古墳群」(東かがわ市白鳥)は、桶端古墳群のさらに東方で、東丘陵から北東に派生する丘陵とその先の独立丘陵にある6基から成る。独立丘陵には3つの頂部があったが、かつて畑地として開墾され、いまは高松自動車道が貫くなどで削平され、一部が雑木林として残るのみ。江戸時代前期に浅い谷筋を堰き止めて造った原間池の南東にあたる。
 一帯は湊川の左岸(西岸)に沿い、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡があるところ。丘陵の東南の傾斜地に竪穴式住居1・土壙墓35基・土師器棺墓21基を擁する「桶端遺跡」があり、独立丘陵の西端の頂部に弥生時代後期の「桶端墳丘墓」(径18m)があった。丘陵裾の湊川左岸(西岸)の平地には「神越遺跡」があり、竪穴式住居跡・弥生土器片・包丁などを出土した。
 これらの遺跡から仰ぎ見る位置に神越古墳群があるので、原間古墳群とは異なる集団が築いたものであろう。
 「3号墳」が、東丘陵から北東に派生する丘陵の頂部にあった。畑地化により墳丘が削平されていたが、周溝の検出から径8.54mの円墳と推定。埋葬部は隅丸長方形[2.75m×1.25m]で、粘土槨に木棺墓があり、鉇、ガラス玉を出土した。原間3号墳と同時期の5世紀後半の築造(TK23)
 「4号墳」は、独立丘陵の最高所にあたる東端の頂部にあり、土取りなどで破壊が著しく詳細不明。中期古墳とみられる。
 「1号墳」は、独立丘陵の南東端の頂部から遺物が出たことで存在を推定された古墳で、詳細不明。
 「2号墳」は、1号墳から南東にくだる傾斜面にあり、畑地化によって削平されていたが、周溝の検出から11.7mの円墳を推定。両袖型横穴式石室は残存状況が良く、南に開口し、玄室[長約3.5m×幅約1.5m]、羨道[現存長約3.3m×幅2.0-2.5m]を測る。川原石で造った玄室に3体分の人骨があり、耳環4、ガラス玉多数、管玉、空玉、勾玉、鉄鏃、馬具、刀子のほか、須恵器・土師器などを出土した。6世紀後半から7世紀初めの築造を推定。
 「5号墳」は、独立丘陵の北端にあり、原間池の南畔に接する。畑地化により墳丘と石室の削平が著しいが、径4~5mの円墳と推定。南西に開口する横穴式石室は全長2.4mを超え、玄室[長さ1.4m以上×幅1.5-1.24m]、羨道[残存長1.0m×幅1.3m]を測る。石材は多くが川原石の砂岩で、一部に花崗岩を含む。遺物は、刀子2、鉄釘2、耳環1、土玉3のほか須恵器が多数あり、周溝内から子持ち器台の細片が検出された。7世紀前半の築造。
 「6号墳」の1基のみが、原間池の北東畔に離れて所在する。横穴式石室が開口して露出し、後期古墳であろうが、未調査。
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原間古墳群

 東かがわ市中心部の沖積平野では、内陸部で弥生時代に始まる集落遺跡が見つかり、古墳時代の中期以降に南奥の山沿いで小規模ながら多くの古墳が築かれた。そのなかのひとつである原間(わらま)遺跡とその周辺にある中・後期古墳のようすを次に記す。

 「原間古墳群」(東かがわ市白鳥町原間)は、南奥の谷あいにある原間遺跡を囲む東西の丘陵にあり、東・西両支群と原間1号墳に分けられる。四国横断自動車道建設にともなう事前調査を含めて、1997-2001(平成9-13)年度における諸調査により、丘陵の頂部と尾根筋や山裾で10基の存在が確認された。

 「原間東支群」は原間遺跡の東に位置する丘陵(東丘陵)にあり、中期古墳2基と後期古墳1基から成る。一帯は放牧場や畑地などに開発され墳丘が削平されていたが、周溝や列石などから円墳とその規模が想定された。
 「6号墳」は東丘陵の頂部(標高48.6m)にあり、眼下に原間遺跡を望む。径30.2mの円墳で、古墳群において最大。竪穴式石槨は大ぶりの [長さ5.1m×幅2.95m] で、2段掘りであることから木槨の存在が想定される。三角板革綴短甲1、頸鎧1、肩鎧1、三塁環頭太刀1を含む太刀3、斧2、鋤先1、鎌1、刀子3、臼玉145のほか、須恵器・土師器などを出土した。5世紀前半の築造(TK216)。
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、その著書で「木槨墓、陶器の副葬、新羅の福泉洞古墳出土のものとほぼ同形同大の三塁環頭太刀から、被葬者は東萊(トンネ、釜山付近)からの渡来人か、新羅とつながりが深い人ではないか」と書く。(『海の向こうからみた倭国』講談社現代新書 2017.2)
 「5号墳」が6号墳の北側にあるもうひとつの丘陵頂部(標高20.2m)にあり、径20.3mの円墳と推定。墳丘の中央部に土壙墓2基があったが土壙内に遺物なし。土壙の傍らで須恵器直口壺1を採集した。5世紀中ごろの築造(TK208)。
(時系列による推測から、この後、当該首長系列は6号墳の丘陵裾へ築造地を移したようで「桶端(といばな)古墳群」2基がある。次項で取り上げる)
 「2号墳」は時期的な間隔を置いて、6世紀末に築造された後期古墳である(TK209)。5号墳からさらに北西側にくだる丘陵台にあり、墳丘は開墾と土砂採取により改変されていたが、径13.3mの円墳と推定。花崗岩製の横穴式石室が東に開口し、玄室[長さ4.0m×幅2.2-1.8m]、羨道[長さ5.0m×幅1.3m]を測る。土器類多数のほか、鉄鏃、鉄刀の一部(推定)を採集した。

 「原間西支群」は桶端古墳群を引き継いで、原間遺跡の西に位置する丘陵(西丘陵)にある古墳時代中期後半以降の6基から成る。西丘陵の双子状の丘陵頂部に「3・4号墳」があり、そこから南東にのびる稜線上に「7・8・9号墳」が連なり、丘陵端に「10号墳」がある。築造時期が不明のものもあるが、時代を経るにしたがい墳丘が小型化するようだ。
 「3号墳」が西丘陵の北西側の丘陵頂部(標高53.5m)にある。径14.5mの円墳で、埋葬部2基に副葬品なし。近傍から鉇1、不明鉄製品、須恵器・土師器が出た。5世紀後半の築造(TK23)。
 「4号墳」が西丘陵の南東側の丘陵頂部(標高54.5m)にあり、畑地化により墳丘が削平されていたが、径13.3mの円墳と推定。須恵器・土師器のほか、鉄製品については墓壙内から鉄刀1、刀子1、鉄鏃9、鉇4を、周溝から鑿1を出土した。5世紀末の築造(TK47)
 「7,8号墳」は4号墳から南東にくだる稜線上にあり、箱式石棺の存在が認められたが、墳丘・遺物ともに不明。
 「9号墳」はさらに南東側の傾斜地にあり、径8.6mの円墳だが、埋葬部は削平されて検出されず。5世紀末の築造(TK47)。
 「10号墳」が南東側にある丘陵端(標高43.5m)にあり、径7.0×9.3mの楕円形墳。埋葬頭位が東向きから北向きに変ったが確認される。遺物、築造時期とも不明。

 「原間1号墳」は、原間西支群から南へ数100m離れた丘陵裾(標高31.0m)にある。谷あいの扇状地の最奥部にあって、平地への眺望は限られる。かつて原間古墳と呼ばれたが、のちに古墳が近くで見つかったことから、原間1号墳と改称された。
 径10~25mの円墳で、片袖式横穴式石室が南東に開口し、玄室[長さ3.1m×幅1.6m×高さ2m]、羨道[現存長4.75m×幅1.6m×高さ2m]を測る。平地に近いことから平安時代末期にすでに開口していたようで、遺物は少量の土器片のみ。6世紀末から7世紀初にかけて築造された終末期古墳で、原間古墳群の最後を画する。

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東かがわ市の古墳―秋葉山塊の前・中期古墳 

 香川県の東端に位置する東かがわ市は、中心部が与田川・湊川などが形成する沖積平野にあり、律令制下では大内郡の白鳥郷や与泰郷などにあたる。
 この平野の南奥では、東西と南を丘陵で囲まれた谷あいの扇状地に「原間(わらま)遺跡」(東かがわ市川東原間)が見つかった。弥生時代後期から奈良時代まで続いた集落遺跡で、現在の大内町と白鳥町の境界付近に展開した。また北側の広い平野部には「住屋遺跡」(東かがわ市川東住屋)が見いだされた。古墳時代後期の集落遺跡で、竪穴式住居跡が6世紀初の6棟、中期の8棟、終期の12棟、7世紀初から中期にかけての20棟と検出され、与田川の川筋の変化に応じて、住居の移動が促されたのであろうという。
 これら地域の東側に南の虎丸山(標高373m)から北東に派生する長い丘陵があり、先端が秋葉山塊(標高97.1m)である。丘陵は途中の浅い谷筋が堰き止められて、江戸時代初期に原間池が造成され、秋葉山が独立丘陵状になった。この山麓にいくつかの古墳があり、古代には東麓に讃岐の最古寺院のひとつである「白鳥廃寺」が建ち、南西麓に平安時代の「高松廃寺」、また南東麓に「桶端廃寺跡」が伝わる。当時、畿内から讃岐に到る陸路の玄関口は讃岐東部であったから、文化の一大中心地となった。現在は、山頂に秋葉神社があり、北麓に前山団地が形成され、国道11号線の大内白鳥バイパスが前山トンネルで貫く。

 「大日山古墳(1号墳)」(東かがわ市白鳥北池/川東)は、秋葉山塊から南西にのびる尾根の先端(標高53m/比高30m)にある。北方向に住屋遺跡を望むが、海への眺望はない。南方向に原間遺跡がある。
 墳長38m/後円部径20m/前方部先端幅10mで、前方部の西側が改変された柄鏡型前方後円墳とみられる。段築なし、円筒埴輪あり、葺石不明。後円部頂に大日如来像が祀られるのが、名前の由来。像の基壇[2m×1m]である安山岩製の割石は、竪穴式石槨の石材が再利用されたものであろうという。基壇は古墳の主軸に直交してほぼ東西方位。
 1926(昭和11)年以前に乱掘されており、測量調査が行われたのみで埋葬部は未調査。津田湾岸の火山で産する白色凝灰岩で造った刳抜式石棺があったと伝わるが、詳細不明。4世紀代に築造された前期古墳とみられる。
 近くに箱式石棺(2号墳)が所在する。岡前地神社古墳.JPG

 「岡前地神社古墳」(東かがわ市湊)は、秋葉山塊の山麓において大日山古墳とは反対側の北東端にあり、瀬戸内海を見晴るかす。
 2016(平成28)3月に地元住民が周辺を清掃する折に、石棺の蓋を見つけた。長さ183cm/高さ50cm/辺[90cm&76cm]を測る刳抜式石棺の蓋で、津田・火山産の凝灰岩で造ったもの。屋根型の形状をし、両側面に2個ずつ計4個の縄掛突起があった。
 周辺の地形図を精査すると、墳長92-96m/後円部径50-55m/前方部幅50mの前方後円形が浮かび上がる(写真)。後円部の中心あたりに石蓋があり、円筒埴輪も見つかったことから前方後円墳の存在が推測される。石棺の身などは未発見で、今後、調査が予定されている。
 埴輪や石蓋の観察から4世紀末ないし5世紀初に築造された前期or中期古墳であろう。この後に西方の津田湾の内陸部で畿内型前方後円墳の富田茶臼山古墳が登場することに鑑みると、地理的にも時代的にも、先駆的位置を占めるものであろう。古墳であるとすれば、讃岐において5番目の規模となる。

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