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仏教と啓示宗教

 Arnold Toynbeeのいう「高等宗教」が現代に共存し、ときに摩擦や軋轢を起こす。このことについて、彼はどう考えたであろうか。『歴史の研究 第7巻 世界教会』には、次のような一節がある。(サマヴェル縮刷版の日本語訳による)
 「人類の歴史はいまだ揺籃期であって、今後なお何万年も何十万年も続くはずであるから、そのような見通しにおいてみれば、現在の宗教的割拠状態が際限なしに続くことは到底考えられない。全部が共倒れになるか、統一された人類が宗教的統一のうちに救いを見出すか、どちらかである」。いずれは世界の宗教が統一される可能性があると述べている。
 そのいっぽう「高等宗教に多様性があることは、躓きの石ではなく、人間精神の多様性の必然的結果である」といい「唯一の真の神に近づく人間の道はひとつではない、というのは人間性には神の創造事業の証拠として実り豊かな多様性の刻印が押されているからである」として、宗教が多様なままであることの必然性を語っているようでもある。

 このように著しつつToynbeeは高度の普遍性を与えた仏教とキリスト教などの啓示宗教(超越神が自らを開示したとする宗教)とについて、比較論を展開する。
 「従来の歴史において、ユダヤ教系統のキリスト教やイスラームは競争場裡にある場合に不寛容が支配した、これに反し仏教などインド文明的な気質が強い場合には共存共栄が通則であった」といい「釈迦が自分自身の精神的な努力によって自己中心主義から涅槃にいたる道を見出したと主張する仏教は、謙虚に見える」とする。
 こうした記述に関し、Toynbeeは40歳台から論説の調子が変り、啓示宗教を信じることができなくなった。不可知論に傾いて、やさしさや慈しみこそを本質とする仏教の境地に傾倒した形跡があるとの説が語られる。
 その要因として、妻リザリンドとの離婚を決心したこと(1942)、長男トニーの自殺(1939)、母の死(1939)、父の死(1941)など、精神的苦難が集中したことに因るとする説と、彼自身の研究の展開にもとづくものとする説の二手の分析がある。

 仏教と啓示宗教とを比べて仏教の方が優れているのであれば、仏教の方が圧倒的に先行して成立したのであるから、どうしてインドから西の地域に仏教が伝わらなかったのか、という疑問が頭をもたげる。仏教が全人類への布教に成功しておれば、今日までの歴史において、宗教の違いに拠る「文明対立」は起こらなかったはずである。
 Toynbeeも、これに関する研究を進めている。その結果、仏教を信奉したアショカ王は西方への布教努力も怠らなかった、ギリシャ系やイラン系の人びとが住む地域へ伝道師を派遣した、布教を担う法大官(専門官吏)を任命してペルシャ・ギリシャ・エジプトへ送ったなどの記録を見つけた。またインドに来たギリシャ人が仏教僧になったとか、バクトリアへはマハーラキッタという比丘にカーラーマ経を伝えさせた、などの記録もある。西欧側の記録はないが、ヨーロッパの修道院制度は仏教を範としたものであるともいう。
 実際にも、8世紀半ばまでに仏教はイラン高原東部でそうとうの勢力を維持していた、イスラーム帝国のアッバース朝で活躍した宰相のなかに仏教徒の家系の者がいた、この地で古代アーリア人が守っていたミスラ信仰や救世主信仰などの影響によって大乗仏教の弥勒菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩などの信仰が生まれた、という事実もある。

 しかしインドから西方に向かった仏教は、必ずしも根付かなかった。それはどうしてであろうか。
 イランや中東の気象条件がインドや東南アジアとは異なり、遊牧や交易などを生業とする者が多く、人びとの気質や傾向が異なることが原因であろうか。「砂漠のなか、一茎の花、あるいは月」という情景は一神教にこそふさわしく、仏教やヒンズー教は高温多湿の世界のものとする意見もある。あるいはインドから西方では仏教の成立時期と並行して、ゾロアスター教、ユダヤ教などの合理的宗教が成立したから、これらとの軋轢によって仏教が普及しにくかったという事情が働いたのであろうか。
 Toynbeeは、これらについて「いずれでもない」という。人間の心理学的な型に違いはないし、仏教は排他的でなく中国では儒教と日本では神道と融合して別に問題がなかったと指摘する。そのいっぽう、彼自身の回答を提示しようとはしていない。
 今日、東西の文明対立や文化・宗教摩擦が大きな問題である。Toynbeeの諸説を参考にして、いまを生きる我々自身が答えを見つけなければならないのであろう。
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トインビーの宗教観

 アーノルド・トインビー Arnold Toynbeeが「高等宗教」のうち、今日にも大きな影響力をもつとするゾロアスター教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、キリスト教、イスラームについて“高等性(普遍性)”の視点からどう評価していたかを見てみよう。

 まず仏教について。釈尊の教えを一言でいうと「人のあらゆる欲望が消えた状態を涅槃とし、かかる至高の境地に到達するよう修行を重ねるべし」と集約できるとする。自己中心主義の拠って立つ根源は「欲望」であるから、欲望を超克することは各人の利益はもちろん、社会の利害から遊離した境地を追究することになる。
 また釈尊が弟子のアーナンダに「師が亡くなられたときどう実践すればいいのか」と問われたとき「自らを灯明とし、法を灯明とし、修行せよ」と応じた。意味するところは修行の目標を各人の心の持ちように委ねることとなり、救済への道がひとつだけではないことに心を開かせる。つまり釈尊の教えは「自らも生き、他人をも生かす用意がある」ものとなる。
 いずれにしろ文化の違いを超えて諸民族に適用できる教えであることから、仏教に高度の普遍性を与えた。

 ゾロアスター教、バラモン教(のちにヒンズー教)、ユダヤ教の3つの宗教は、それぞれアフラ・マズダ(叡智の主)、梵天(宇宙原理を人格神としたブラフマン)、ヤハウェと呼ぶ唯一神を絶対的存在としている。これらは涅槃に通じる絶対的存在の性格を有するものとして、革命的に文化的・社会的な影響をもつ。これらの人格神が具象化されると、特定の民族や種族の姿で表されて普遍性を減じるおそれがあるが、偶像化は否定されているから問題は生じない。
 ただしこれら3宗教は、絶対的存在が遍在する(世界にあまねく実在する)主であるとした後も、依然として当初に生まれた集団や社会を守護し救う主体であるとする。つまり民族の神であると考え続けることで、普遍への道を歩み始めたが、途中で停止してしまった。くわえてToynbeeは、これら3宗教に次の問題点を指摘する。
 ゾロアスター教は、それが生まれた民族である古代アーリア人の社会に特有の世俗的な律法体系に従わせようとしたので、普遍性を持ちえない。
 ヒンズー教は、さまざまの信仰対象を取り入れて一切を包容し、共存の精神を基本とすることで普遍性をもちうる。ところが人びとをそれぞれのカースト(社会階層)に位置づけて、特定の社会構造の一員に帰化するよう求めたので、高等宗教として不十分である。
 ユダヤ教は、ヤハウェという人格神の偶像化をきびしく拒絶した。ただし周辺の諸宗教に対して非寛容であったのみならず、自己以外の高等宗教に対してもつねに非寛容であった。ユダヤ民族は自分らの神が古い宗教や他の宗教の神々よりもはるかに霊感に富んで信服させる力が強いとして、ヤハウェが啓示する言葉を唯一の救済手段とした。これだけが絶対的真理への道であるとして強い排他性を維持するので、高等宗教の資格に欠ける。

 これに対して、ユダヤ教の後、数世紀後に生まれたキリスト教とイスラームは、ユダヤ教が有する排他性や民族性を止揚し、普遍性のある教義のみを取り上げた。これにより高等宗教となり、世界宗教になった。
 ただしこれらの2宗教は、ユダヤ教が本来的に持っていた基本的性格のために、仏教と比べて不寛容・憎悪・敵意・無慈悲・迫害などの歴史を持つ。教義は神からの直接の啓示であるから、自分らだけが唯一正しいとし、絶対的に真であると考える。神は唯一で全知・全能であると主張するから妥協の余地がなく、民族主義と結びついたときに強い排他性を持つとして警戒する。

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アーノルド・トインビーの「高等宗教」

 Karl Jaspers(1883~1969)が「基軸の時代」と呼んだときの成果を土台に、仏教、キリスト教、イスラームの3大世界宗教が生まれた。これに関連する20世紀最大の歴史家とされるイギリスのアーノルド・トインビー Arnold Toynbee (1889~1975) (写真)の宗教論に触れておくことにしよう。585.jpg
 Toynbeeの中心となる著作は『歴史の研究 A Study of History 10巻』である。1~3巻が1934年に、4~6巻が1937年に、7~10巻が1954年に、『地図と地名索引』が1958年に出版された。これに関し世界各地からさまざまの批判が寄せられたので『再考察Reconsideration』が1961年に出版された。
 彼は「世界」よりは小さいが「国家」よりは大きい歴史単位を設定して、文明の興亡を分析した。これまでの世界において『1~10巻』では「3世代で21~23の文明」が存在したとし、『再考察』では「13の独立文明と15の衛星文明」に変更した。

 これらのなかで、従来の欧米の社会科学がヨーロッパ中心主義であったこと、また専門細分化の方向にあったことに警鐘を鳴らし、諸文明は“挑戦と応戦”challenge-and-responseにより興亡したとする。ある文明が他の文明の挑戦を受けたとき、これへの対応については「応戦の結果は因果的にあらかじめ決定されない。・・・現在の挑戦を乗り越えるだけでなく、新しい挑戦を生み出し、こうして生き続けていけるような形で挑戦を乗り越える応戦が必要である」と書く。
 さらに文明の展開における宗教の役割を重視し「基軸の時代」の成果として生まれた高等宗教を分析する。「高等宗教」とは、究極の霊的実在が人びとの前に直接的に顕現する宗教であり、超人間的で絶対的な存在の超越神が“経済的・政治的な利益を媒介としてではなく”人びとの前に立ち現れ、人の魂と触れ合う宗教であるという。

 「経済的・政治的な利益を媒介としてではなく」について考えてみよう。我々が神社や寺院に参拝するとき、自然と何らかの希望や願いが叶うことを祈る場合が多い。宗教の始まりも、豊作や豊漁、天候の好転、一族の繁栄、戦いの勝利など、さまざまの現実的な利益を願うことを契機としたであろう。つまり宗教は、現世利益(げんぜりやく)をねらいに生まれた。
 現世利益を願っても果たして効果があるのかどうか、「神」が我々の願いに応える力を持つかどうかは、分からない。もっとも祈りによって気持ちが定まって集中できたり、人びとの心が結集されたりして、所期の成果を得る可能性が高まるであろうから、祈りも捨てたものではない。
 しかし現世利益を祈ることは、いつの時代にも怪しげな呪術や秘儀という陥穽におちいりがちである。現代の我々がなじんでいる近代的・科学的思考によると、呪術や秘儀が現実的な効果をもつとは思えない。Max Weberが言ったとおり、我々は「宗教の合理化」の洗礼を受け入れている。

 「高等宗教」において究極の霊的実在と直接向き合ったとき、我々は何を得るのであろうか。人は直接的に神に向き合って生き方や倫理性を問われるとき、精神的に独立する。ここに宗教は現世利益など経済的・政治的状況とは無関係なものとなり、所属する集団や民族から遊離する。他の集団や民族も受け入れ可能な宗教となり、人類が共有できる普遍宗教となる。
 Toynbeeは、このような普遍性を備えた「高等宗教」が基軸の時代に生まれ、以後における世界文明の興亡に大きな役割を果したとする。(第1次)高等宗教として12の宗教を挙げたが、そのうち現在にも大きな影響を与えているのは、ゾロアスター教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、キリスト教、イスラームの6つであるとし、それぞれへの見解を表した。
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預言者ムハンマドの登場

 宗教的に混沌としたアラビア半島に、預言者ムハンマド(AD571?‐632)が登場する。生まれたのは、半島中西部の紅海に沿うヒジャース地方で、山脈の西麓にあるマッカは一神教の影響が強かったところ。3世代前から隊商を組織して交易に従事するクライシュ族に属し、早くに両親を失い伯父などに育てられた。
 正直者であるとの評判を得て、25歳のころ富裕な未亡人のハディージャと結婚する。しだいにマッカ近郊のヌール山のヒラー洞窟に籠ることが多くなり、40歳前後の西暦610年に、天使ガブリエルを介してアラビアの最高神の啓示を受ける。アッラーから明澄で説得的な言葉を与えられ、大きな衝撃を受けたという。
 啓示された教えは、ユダヤ教やイエスを包摂して混迷する一神教の完全をめざすもので、のちに『クルアーン』にまとめられる。教義の骨格は次のようである。

 アッラーが唯一絶対の創造神であり、人びとは神の前で平等である。神と人とは主人と奴隷の関係にあり、神は人に対し絶対的な服従を要求する。いつの時代にも妥当し、現世のみならず来世をも支配する教えである。慈愛の神であるが、憤怒し復讐する人格神であり、大いに嫉妬する。
 ムハンマドは召命されて神の言葉を預かる預言者(人)であり、神性を有することも信仰や崇拝の対象になることもない。アブラハム、モーセ、イエス(イスラームではイーサー)も預言者(人)で、ムハンマドはそれらに続く者である。ムハンマドが最後の締めくくりの預言者であり、預言者たちの封印である。

 当時のキリスト教団において、イエスが神であるか人であるか、あるいは神と人との両性を具有するかの議論があった。両性を有するとしても、その発現の仕方をめぐって論争があった。このように混迷する教えを不完全として退けるいっぽう、もはや預言者は現れないとして一神教の完成を宣言した。神の姿に関しては、部族を違えても受容しやすいよう偶像神を徹底的に忌避した。
 部族ごとに分かれて統一されておらず、ユダヤ教・キリスト教・多神教など多彩な宗教に色取られたアラビア半島において、宗教を軸として共存できる仕組みが用意された。普遍的宗教を最上位において、政治・司法を一体化させる「宗教共同体」を現出させ、またたく間に版図を広げた。

 ムハンマドの不運は、2男4女をもうけながら男子がいずれも夭折し、明確な形で跡継ぎを残せなかったことであろう。彼の死後の後継者は、アブー・バクル(義父)、ウマル(義父)、ウスマーン(娘婿、ウマイヤ家に属する)、アリー(従弟で娘婿、ハーシム家に属する)と続き、ここまでの4代は、宗教共同体の総意によって選ばれたとする建前が整い“正統カリフの時代”と呼ばれる。
 ただしその後は後継者をめぐる争いと混乱が続く。ムハンマドの血統(ハーシム家)を重視してアリーの子孫を後継者として主張するシーア派と、世俗的実力を蓄えたウマイヤ家に従うスンニ派とに分裂した。両者は激越な闘争を繰り返し、その歴史経緯が怨恨を生み、今日にいたるも抜き差しならない対立が続いている。前者は精神的・内面的な傾向が強く、後者は現実的・形式的な傾向が強いなどの違いはあるが、教義において大きな差はないとされる。

 イスラーム帝国はアラビアを中心に、中央アジア、西北インド、北アフリカ、イベリア半島へと版図を拡大し、ギリシャ文化をも吸収してアッバース朝時代(AD750-1258)の8・9世紀に黄金期を迎える。その後、版図内でアラブ以外のトルコ族やペルシャ族などの台頭が進み、キリスト教徒による十字軍遠征(11世紀末~13世紀初)、モンゴル族の侵入(13・14世紀)などもあって、王朝は分裂する。
 いっぽう西欧のキリスト教圏では、イスラーム圏を通じてギリシャ文化を吸収し、近代合理主義を生みだす。宗教の世俗化に成功して科学技術を発展させ、それを基盤に産業的・軍事的に強勢になる。力を蓄えてイスラーム圏に勢力を伸ばしてきたとき、宗教を至上とするイスラーム体制の矛盾が噴出した。

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イスラーム前夜のアラビア半島

 キリスト教に続く世界宗教として、イスラームが成立した。そのようすについても概説しておこう。

 舞台は広大なアラビア半島である。西の紅海に沿うヒジャース地方には山系が走り、南にはヒムヤルと呼ばれた灌漑された地域があるが、大部分は沙漠の大地が広がる。遊牧民がラクダ・羊・ヤギなどを養いながら遊弋して部族ごとのまとまりで暮らし、大帝国は生まれない。東方のペルシャと西方の地中海やエジプトとの結節点にあたり、商業と交易が発達し、契約遵守の気風を育てた。
 いっぽう周囲には紀元前後に大帝国が成立し、その影響下におかれた。東ではペルシャにあったパルティア王国が3世紀にササーン朝に交代し、西ではローマ帝国が5世紀からビザンツ帝国となり存続した。東西の両帝国は4~7世紀間において、間歇的な休戦をはさみながら延々と戦火を交えた。西方のアフリカでは、3世紀ころから現在のエチオピアの地においてアクスム国が勢力を伸長した。
 これらの周辺国は軍事的・宗教的対立を契機に勢力の拡大を図り、遠征や代理戦争を強要するなどでアラビアを巻き込んだ。アラブ側でも団結を迫られ、部族連合国家を誕生させるなどの対応を迫られた。

 遊牧民の宗教は、沙漠において目立つ岩石や樹木のほか、太陽・月・星などの天体、また嵐・雷などの自然現象を神格化することが一般的である。アラビア半島にはイスラーム以前に多くの神殿があり、そこに神の偶像を造って祀った。いまイスラームの聖地となっているメッカのカアバ神殿には、かつて630体の偶像があったという。
 もっともアラビア半島はゾロアスター教が生まれたペルシャに近く、ユダヤ・キリスト両教を生んだパレスティナに隣接するから、しだいに一神教に馴染んだようである。南アラビアでは3世紀に一神教の傾向が見られ、4世紀半ばに(由来が定かではないが)「天の主」を主宰神とする一神教があったとする石碑が残る。

 このアラビア半島にユダヤ教徒が移り住んできた。紀元前6世紀の「バビロンの捕囚」に際しては約3000人のユダヤ人がバビロンに連れ去られたが、それ以外の行き場を失ったユダヤ人が到来した。紀元後のユダヤ戦争の結末としても、離散したユダヤ人の多くが地理的に近い半島へ移住した。これらを通じてユダヤ教が広がり、貴族層を中心に受容された。
 南アラビアのヒムヤルには、ユダヤ教徒が堅固なコミュニティを形成し、6世紀にユダヤ教徒を宣明する王が現れた。518・525の両年には、キリスト教徒が迫害されたことを機に、対岸のキリスト教国のアクスム国が軍隊を派遣した。

 いっぽうキリスト教は、4世紀にローマ帝国で公認された後、アラビア半島の北西部を中心に活発に布教された。モーセにゆかりのシナイ半島には修道士の拠点ができ、かつてのナバテア王国の都ペトラはキリスト教徒の町になった。半島中西部のヒジャース地方でも信者が増え、キリスト教に改宗した部族がビザンツ帝国の後ろ盾を得て陸上交易を支配した。
 エフェソス公会議(431年)ではマリアを神の母と呼ぶことを否認したネストリウス派が異端とされ、カルケドン公会議(451年)ではキリストの単性論や合性論を唱えた宗派が異端とされ、非カルケドン派と呼ばれた。これらの宗派は積極的にローマ帝国外への布教を進めたので、半島に宗派対立が持ち込まれた。ローマ皇帝が交代すると支持する宗派が変更されることがあり、情勢を複雑化した。

 そのいっぽう中央アラビアでは、多神教を強固に堅持する部族連合もあった。かくしてイスラーム前夜のアラビア半島は、一神教が優勢ながらも、宗教事情は複相し動揺していた。

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使徒パウロとキリスト教

 ユダヤの律法を明確に否定したのはパウロPaulo(AD3-67?)である。『コリント信徒への手紙』など『新約聖書』に収められたいくつかの書簡を書いた人物で、キリスト復活譚もパウロに帰せられる。教義の成立に決定的な役割を果たし、キリスト教を“パウロ教”と呼ぶべきだという人がいるほど。
 ギリシャ語でパウロ(ヘブライ語ではサウロ)は、トルコ半島の付け根にあり東地中海に面するタルソTarsoで生まれた。はじめユダヤ教のファリサイ派に属しキリスト教徒を弾圧する側にいたが、AD34年にダマスコ(現・ダマスクス)教会へ向かう途中で天上から下るイエスの声に衝撃を受け“回心”した。その後は熱心なキリスト教の布教者となり、ローマ帝国内に3回の伝道旅行を行った。

 パウロはアンティオキア(現・トルコ)教会を中心に、非ユダヤ人(異邦人)に対する布教を担当した。「キリストは律法の終わりである」「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」と断言し、律法を重視するエルサレム教会と対立した。これが決定的となり、AD50~60年頃に両者は分裂する。
 このときローマ帝国の支配下にあったユダヤ人の反乱が起こる。第1次ユダヤ戦争(AD66-73)では、ローマ軍の攻撃によりエルサレム宮殿が炎上した(AD 70)。再び起こった反乱に対して第2次ユダヤ戦争(AD132-135)が惹起し、ユダヤ人のエルサレムへの立入りが禁止される。そこに居住したユダヤ人はキリスト教徒・ユダヤ教徒を問わず離散(ディアスポラ)を余儀なくされ、地名もイスラエルからパレスチナに変更される。かくしてその後のキリスト教は、パウロが進めたものが主流になる。

 時代背景として、アレクサンダー大王征服後の一帯が、ギリシャ思想の影響を受けヘレニズム化していたことを考慮に入れなければならない。
 ギリシャ思想においては、ヘーラクレイトスのロゴスLogosに始まり、アナクサゴラスの知性(ヌースnous)、プラトーンのイデア界を支配する「一者」、アリストテレースの原初的存在たる「不動の第1動者」など、この世を始原的に創り上げる主体の存在が構想された。つまり世界の頂点に理性(合理性)の存在を考える神概念が成立した。
 ヘレニズム思想の広がりに対してユダヤ教の側でも対応を迫られて、さまざまの改革者が登場した。そのひとりであるユダヤ人の哲学者フィロンPhilon (BC20/30~AD40/45) は「ロゴスは神である」と語って、ギリシャ哲学とキリスト教の融合を図った。
 ここにロゴスを受肉した神概念が生まれ、イエスに神性が与えられる。ギリシャ文化に馴染んだキリスト教徒は、これを速やかに理解したであろう。キリスト教はユダヤ教の媒介なしに成立する一神教となり、普遍性を獲得する。

 キリスト教は哲学を理解する知識階級に受容された。繁雑な律法や儀式を語らず精神主義を強調するから、一般庶民も受け入れやすい。離散したユダヤ人もキリスト教の受け皿になった。ユダヤ教の会堂であったシナゴーグがキリスト教の普及に用いられたという。
 その後、キリスト教はローマ帝国内に急速に広がり、313年のコンスタンティヌスⅠ世の「ミラノ勅令」によって「公認」された。380年にテオドシウス帝のとき「国教化」され、以後、帝国内で異教の祭祀を弾圧する側に回る。やがてヨーロッパはもちろん世界各地に広がる世界宗教になった。
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イエス・キリスト

 ユダヤ教とギリシャ思想を土台として世界宗教である「キリスト教」が生まれた。これは紀元前後以降のことでBC 6-5世紀を中心とする「基軸の時代」のことではないが、話の続きとして要点を辿っておく。

 イエス・キリストJesus Christ (BC6/4~AD30) は、イスラエル北部のガリラヤ湖に近いナザレで生まれた。紛れもないユダヤ教徒で「イエスはユダヤ教が述べていないような道徳原理を何一つ新たに提起していない」と指摘されるように、現在の『旧約聖書』のなかに記されていることを熱心に説いた。ただし内容は、精神生活に関することに限られた。
 「神の国は虐げられた者たちのものである」「汝の欲せざるところを人に施すなかれ」「汝の敵を愛せよ」などと、神の愛や隣人愛について語り、ユダヤ教徒の精神生活の完成をめざす倫理指針を説いた。このことをドイツの宗教社会学者のMax Weberは「倫理的最小限度」と呼び、宗教の合理化を先に進めたとして評価する。
 ユダヤ教のかつての預言者の言葉に「メシア(救世主)思想」がある。民族の苦難や窮状において、カリスマ的な指導者が現れ、これを救うという。イエスの言動にひきつけられた人びとは、待望久しいメシアの出現かと期待した。

 いっぽうで、イエスはユダヤ民族の“選民思想”について「すべての人間が等しく尊重される権利を有する」と語り、これを否定した。ユダヤの儀式や制度についても、その腐敗を再三にわたって指摘して、擁護することがなかった。
 問題は、ヤハウェがユダヤの民に啓示したとされる律法(Torahトーラー)についてである。よく知られた律法として、割礼(生後1週間に男子の包皮を切除して神との契約のシンボルとする)や食事規制(豚肉や鰓と鱗のないイカ・タコを食べない、乳製品と肉を一緒に食べないなど)がある。ほかにも清浄、損害などに関する多数の律法があり、当時は師資相承される口伝であった。後世のAD2世紀以降にタルムード(宗教的典範)として文字化されたときには、613の戒律があり、うち奨励事項が248、禁止事項が365にのぼった。

 イエスの言葉として有名な『山上の垂訓』のなかに「わたしが律法や預言者を廃するためにきたと思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点・一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」との一節がある。律法を否定したわけではないらしい。
 もっとも『マタイ伝』には「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから彼らがあなた方に言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには倣うな。彼らは言うだけで、実行しないから」とある。積極的に律法を遵守したり勧めたりは、しなかったようだ。

 当時のユダヤ教には有力な3大宗派があり、律法主義を掲げて「律法を守ることによって義とするとせられる」と考えるファリサイ派、神殿主義を標榜して「供儀の儀式により神とつながる」ことを重んじるサドカイ派、農耕を中心とする共同作業のなかで厳格かつ敬虔な宗教生活を送るエッセネ派があった。
 エッセネ派がイエスにどう関わったかの記録はなく、分からない。ファイサル派とサドカイ派はイエスのメシア性を疑い、危険思想とみなして反感を募らせる者もいたであろう。
 この結果、ユダヤ教の指導層とイエスにしたがう人びととの間で軋轢が生じた。ただしそれが決定的になるのは、後のパウロの時代になってからのようである。イエスが律法を否定したとする言葉がいくつかの文書にあるが、後世の作であるとする意見がある。

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古代ユダヤ教とマックス・ウェーバー

 ドイツの哲学者のカール・ヤスパースKarl Jaspers(1883~1969)は「基軸(枢軸)の時代」The Age of Axisにおける人類精神史の具体的成果として「中国の孔子や老子、インドのウパニシャッドの成立と釈迦、イランのゾロアスター、パレスチナの預言者、ギリシャの哲学者」を挙げた。逐次、そのようすを紹介してきたので、ここでは残された「パレスチナの預言者」を取り上げる。

 BC8~6世紀においてユダヤ民族は、(ヘブライ王国の南北分裂後の)南王国ユダの後半期から、バビロンの捕囚、ペルシャ帝国によるバビロニア滅亡、パレスチナ帰還という激動の歴史を経験する。この時期にイザヤ、エレミア、第2イザヤなどの預言者が現れ、神の言葉として「倫理預言」「使命預言」を語った。これを守ることが唯一神との倫理契約と観念され、倫理に違背する行為は「罪」となり、神の怒りに触れて「罰」が降りかかる。
 これら預言者の言葉は『旧約聖書』の『イザヤ書』『エレミア書』に綴られる。ここにユダヤ民族の宗教が呪術や秘儀などの原始的段階を脱して、人びとが守るべき倫理的指針を束ねたものへと純化する。

 ドイツのマックス・ウェーバーMax Weber(1864~1920)は、我が国では社会経済学者として広く知られるが、宗教社会学の分野においても鋭い分析を行い『古代ユダヤ教』(1920年)ほかの書物を残した。
 Weberは近代文明を他の文明から区別する根本的な原理は“合理化”であると考え、近代思想がどうして西欧で生まれたかを追究した。社会において包括的に合理化が進行する過程は“宗教の合理化”を基礎として長期的に遂行されるとの着想を得、かつ西欧における宗教の合理化の淵源が古代ユダヤ教にあることを確信した。
 かくして多くの書物を著したので「パレスチナの預言者」を語るにおいては、Weberの著述の内容を紹介するのがもっとも適当であろう。ただし何分にも内容が多岐にわたるので、私の印象に残った箇所の大意を列挙すると次のとおり。

 合理化は歴史上、多義に用いられるが「さまざまの要素を矛盾なく、ある目的にしたがって整序する」と要約されよう。また社会における長期的な合理化過程は“宗教の合理化”を基礎として遂行される。つまり人間的な合理性が歴史に現れてくるには、宗教的倫理が役割を果たす。
 (そういう観点で見るならばという自己限定によってであるが)近代の基盤になったのは西欧固有の合理主義であり、近代文明を他の文明から区別する根本的な原理は合理化である。その起点は、古代ユダヤ教が呪術的な原始宗教を脱して、高度宗教へと展開を始めたときにある。

 ユダヤ民族の宗教が合理化に向けた発展をする過程では「預言者」「平信徒知識人層」「祭司」という3つの存在が必要条件であった。
 「預言者」は超人的な洞察力をもつカリスマで、神の召命を権原として内面的自発性において語り、倫理宗教の支柱となる。(「預言者」とは神の言葉を預かる霊能者で、未来事象の予言をも含む日常性を超えた究極を語る。Weberは時事評論家ないし扇動政治家(デマゴーグ)とも呼ぶ)
 「平信徒知識人層」は、ユダヤ社会が周辺世界の文化状況を受容する役割を果たした。この基盤があってこそ、預言者の鋭い状況分析と批判能力が可能になった。
 「祭司」は、犠牲と贖罪の執行を通じて日常生活における倫理的合理化を推進し、宗教合理化の担い手となった。

 ユダヤの集団が出エジプトを果たしてカナンの沃野に侵入し定着する過程で、遊牧民・半牧半農の牧羊者・定住農民・都市市民という4つ階層に分かれた。異なる価値観をもつ社会層から成る集団を糾合するには、普遍性のある神概念を必要とした。元来、ヤハウェは沙漠の戦士共同体の神であったが、姿や形(偶像)を持たない倫理的人格神となり、これを唯一絶対とする信仰が発展した。
 ユダヤ民族の宗教がこうした特異な発展をしたのは、法則的必然性によるものではない。きわめて特異な「歴史的契機」によるもので、例外的な現象とすべきもの。
 パレスチナは東方世界と東地中海世界を結び付ける通商・交易の要衝に位置し、国際的に諸民族が交流・融合した。ユダヤ民族は興亡する専制大国家の狭間にあって束縛と蹂躙を受けたが、政治的自立の可能性のある中間期において、モザイク模様に彩られた自己形成を遂げた。こうした情況がなければアジア的諸宗教の枠を抜けることができなかったであろう。

 ユダヤ教では人間を神の道具とすることで“合理化”の貫徹をめざした。いっぽうインドの思想は、神秘的瞑想のうちに神との合一をめざした。
 ここにおいて“宗教の合理化”過程が2つに分岐した。神義論において合理的な答えを得ようとする要求は、インドでは「現世拒否」に向かったが、ユダヤでは「誤れる現世の拒否」が貫徹された。
 日本では、禁欲的プロテスタンティズムと同水準の職業倫理が13世紀の初頭に生み出され、大衆信仰として日常生活における倫理的合理化が進んだ。
 明治維新は軍事的・行政的変革であり、社会改革ではなかった。日本では教権制が発達していなかったため(宗教的緊縛がなく)、維新の遂行が容易であった。
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アテナイの3哲人

 西漸するペルシャの勢いはやがてギリシャとぶつかり、両者はサラミスの海戦(BC480)、プラテーエーの戦い(BC479)で戦火を交える。ギリシャはペルシャ軍の進攻を抑えることに成功し、都市国家(ポリス)の間でデロス同盟を結ぶ。
 アテナイは同盟の覇権を握り、ペリクレスの執政(BC443-429)のもとで全盛期を迎える。軍事的・経済的に都市国家群の中枢となったほか、ギリシャ各地から芸術家や学者が集まって文化的にも繁栄し、BC447-438にパルテノン神殿を建設する。
 哲学では有名な3哲人が登場し、これまでは自然の組成そのものを探究したのに対し、組成を形作る原因を探るようになる。世界の精神構造や人の心を見つめるようになり、一神教の基礎となる概念が形成される。諸現象を合理的に解明しようとする精神が、アラビアのイスラームを通じてヨーロッパに伝わり、近代思想の基盤となる。

 ソークラテース Socratês (BC 470~399)は自身の著作を残さなかったが、前半生には自然哲学をも語ったという。アナクサゴラスの「万物を秩序づけるのは知性(ヌース)である」との説を聞き「知性は万物を最善に秩序づけるのであろうが、どのように存在し運動するのが最善であるかを探究すべき」と語ったと伝わる。
 道徳哲学の分野では人びとに「無知の知」「汝自身を知れ」などと語り掛け「知」を愛し自力で思考することを勧めた。後半生はアテナイとスパルタが戦ったペロポネソス戦争(BC431-404)のさなかに生き、混乱のなかで処刑された。

 プラトーン Platôn (BC 427~347)が青年期まで過ごしたペロポネソス戦争は、スパルタに対するアテナイの全面降伏で終わる。当初は政治を志したが、ソークラテースの処刑に衝撃を受け遍歴の旅に出る。
 哲学の分野では、ソークラテースが語った勇気・節制・美などの倫理的徳目を明確に定義することを動機として、またパルメニデースの「有」とヘーラクレイトスの「生成」という2つの原理の調停をめざして“イデア”を構想した。
 イデアは意味と価値の原理を示す不生不滅で永遠の真実在である。プシュケー(気息、魂、宇宙の命)によって「場」に映し出されて、感覚可能な現象界が現出する。あらゆるものがイデアから溢れ出るから、生成し消滅する現象界にはイデアが臨在する。イデアは秩序と調和の原型or範型であり、現象界の諸物はイデアを分有する模倣or似姿である。
 イデアを見るには理性によるが、感覚や欲望を解き放って囚われない精神で直接的な直観によるしかない。人の霊魂はイデアを好むから、善と美のイデアを追い求めて、これに合一することを最終目的とする。(ここに哲学から宗教にいたる道が準備された)
 イデア論は存在と生成に関する統一的な説明原理であり、倫理や価値の領域を超えて、広く自然と世界全般を解釈する際にも適用されるべきである。理想的な国家社会の実現にも哲学が生かされるべきで、理性によって支配される「哲人国家」が理想である。
 イデア界にはこれを支配する一者が存在し、自然はそこから流出するとし“演繹法”の源流となる。イデア界(概念)と感覚界(物)の独立的存在を認め“二元論”の立場に立つ。

 アリストテレース Aristotelês (BC 384~322)は、イデアがそれ自体で独立的に存在するというプラトーンの二元論を克服し、自然の成り立ちを説明するのに“四原因説”を唱えた。事物を成り立たせるのは、質料因(素材であり基体である物質的側面)・形相因(もともとの実態であり本質)・始動因(運動や変化を起動させる始原)・目的因(究極にめざす目的・善)の4つである。そしてその高みの頂点に、自らは動かされることなく他を動かす原初的存在である「不動の第1動者」があり、一般的に「神」と呼ばれる。
 神のもくろみである目的因により始動因が働き、形相因と質料因の相互作用のうちにあらゆる事物が生起する。自然界には神の思惟のうちに合理性が措定されているから、自然は合目的性を有する完成形である。
 そう考えて自然界に内在する形相と目的を発見する喜びに駆られて、生物学の分野とくに動物学の研究を進め、類・種を用いて数百種の動物を階層的に分類した。このほか天体・生物・自然・人間界に関する豊富な観察を行い、現実的・経験的な研究を行った。
 かくして哲学は“存在を存在たらしめる”ことを研究する学問であるが、同時に神についても考察するものとなり、彼は第一哲学ないし神学と呼んだ。個物こそが現実の存在であり、概念は観察によって形成されるとし“一元論”の立場に立つ。個々の研究を通じて自然界のハシゴの頂点にいる神の意図を探ることで“帰納法”の源流となる。
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エレア学派と原子論

 これまでの「物質一元論」の思潮に衝撃を与える考えが、南イタリアにあったギリシャの植民都市のエレアで生まれた。パルメニデースを祖とするエレア学派は哲学の方法において厳しく「実在」を問い直し、論理的に明快に把握できるもののみが真実であるとして、感覚によるものを排除した。これによって理論水準が高まり、近代科学が実験と実証により発見する「原子論」に到達した。

 パルメニデースParmenidês (BC 515~ 450? )は、ヘーラクレイトスに反論する「存在論」を説いた。論理的に考えれば無から有が生じたり、有が無になったりするのはおかしいのではないか。変化とは有るものが無いものになったり、無いものが有ることになったりするのではなく“あるものはある、あらぬものはない”はずである。理性的に考えれば実在するものは断じて「有」であり、発生も消滅もせず不生にして不滅、不動にして完全で、永遠に同一性を保つ。感覚で捉える世界は生成変化して一貫性と統一性を欠くから、真実を把握できていない。
 頭のなかの推論による明快さと必然性のみで真実を問い「有」を根本原理とする考え方は、日常的な観察や経験とは相容れない。驚きをもって迎えられたが、当時の思想界では真剣に受け止められ、爾後の理論展開をリードした。

 エンペドクレースEmpedoklês (BC 490~430? )は、パルメニデースの「有」とヘーラクレイトスの「生成」の原理を調停し、一元論を超える多元論を展開した。万物を成り立たせるのは水・火・空気・土の4元素であり、これらは生成変化せず、不変不滅である。これら元素の混合や分離、あるいは配合が異なることにより、多様な世界が生まれる。
 さらに物質と力とを分けて考え、4元素は“愛で結合し争いで分離する”とした。愛憎2つの力の働きで永遠に円環する宇宙を考えた。

 アナクサゴラス Anaxagoras (BC 500~428? )は、さらに考えを発展させた。宇宙は無限に極微で、視覚では捉えられない極小微粒子であるスペルマタspermataという原物質から成る。いっぽうに、心・精神・生成をつかさどる知性としてヌースnousがある。
 渾然一体とした巨大なスペルマタの集団は、ヌースによって最初の一撃を加えられ、旋回運動を起こす。スペルマタ集団は分裂しつつ、新たな結合を生みだす結果、個々の〈もの〉が生まれる。(彼は空虚を認めなかった)

 デーモクリトスDêmokritos (BC 460~370? )は、真の存在としてアトムa-tomos という粒子を創案した。アトムは硬くて頑丈で、虚空間に無数に同質なものとして存在する。それ以上に分割できないもので空虚を含まないが、2つ以上の異なるアトムの間には空虚がある。真の存在はアトムと空虚とである。
 空虚のなかを渦巻いて運ばれる過程でアトムは無数の合成物を生みだし、並び方の形状・向き・配列が異なることで、宇宙のあらゆる現象が顕われる。アトム自体は感覚不能であるが、配列や向きを変えて結合することで、感覚可能で多様に生成変化する現象が生まれる。色・味・匂い・香りなどの感覚作用は対象と主体との間の相互作用であり、双方におけるアトムの結合や配列の違いに応じて、感覚の印象が異なる。(デーモクリトスは、エンペドクレースが構想した構成素材に運動を与える力の原理を想定しなかった)
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ギリシャ哲学

 ドイツの哲学者カール・ヤスパース Karl Jaspers(1883~1969)は、紀元前6-5世紀を中心とした時期を「基軸(枢軸)の時代」The Age of Axisと呼び、世界で都市文明の段階にあった地域において、後世に影響を与える思想的成果が生まれたとする。
 このとき人類は精神的覚醒のときにあたり、この世で不可解と感じることを解明すべく思想活動を起こした。しかし力を尽くしても依然として理解不可能な部分が残ることについて、中東やインドでは超自然的・超越的な原理の領域のこととした。つまり「神」の仕業であるとして、宗教に解決をゆだねた。心の働きに関わる問題とした、と言ってもいいかもしれない。いっぽう中国ではさまざまの処世術など現実的な対応法を生みだし、社会の秩序と安定を企図した。
 いっぽうギリシャの思想界が目指した方向は違った。解明不可能と見える部分についても、あくまでも合理的な解を得るべく思考活動に没入した。宗教や心の持ちようにゆだねるのではなく、今日我々が理性と呼ぶものを働かせて、論理的に解明しようとした。
 ここに“知を愛する”学問たる哲学 philosophyが誕生した。「ギリシャ哲学」と称される成果は、BC7-4世紀間におけるタレースに始まりアリストテレスに至る250年間の事績が重視される。これらが後世の近代科学の成立に大きな影響を与えた。

 ギリシャ人が他地域と異なる方向に思想活動を向けたのは、おそらく宗教的背景の違いに依るであろう。彼らが信じたのはゼウスによって統治されるオリュンポスの神々であり、神は世界をカオスから脱し、秩序をもたらす超越的存在であった。宇宙が神々によって秩序づけられていると考えて、自然のなかに合理的説明を求めようとした。
 こうした思想活動が最初に起こったのは、小アジアのイオニア地方に点在したギリシャの植民都市においてであった。エーゲ海沿岸には地中海交易で栄えた諸都市があったが、ミレトスはそのなかでもっとも栄えており、オリエントやエジプトに近いことから、古代文明の成果に触れる機会も多かった。「ミレトス学派」と呼ばれる哲学者は、世界の成り立ちを神話によらず、一元的に説明しようとした。

 タレース Thalês(BC 624~ 546?)はギリシャ哲学の祖とされ「水」ないし「水のようなもの/湿気」が万物の始原であるとした。タレースがこの着想を得た背景について、メソポタミアとエジプト文明に「大地が水に浮ぶ」との考えがあったことを指摘する識者もいる。とくにエジプトの『死者の書』には「原初の水(ヌーン)が太陽神ラーをも蘇生する根源力をもつ」との記述があるという。
 アナクシマンドロス Anaximandros (BC 610~557?) は、タレースの跡を継ぎ、経験的・具象的なものではない「無限なるもの」to apeiron が万物の根源であるとした。
 アナクシメネースAnaximenês (BC 587~547?) はさらにその弟子で、師が説いた「無限なるもの」に存在感を与えた。「空気」aêr が濃縮したり希薄化したりすることで、万物が生まれるとした。

 ここに東方から大きな政治変動が招来する。BC559年にペルシャでキュロスⅡ世がアケメネス朝を興し、大王の地位に就く。BC494年のダレイオスⅠ世(在位BC522-486)のとき、ミレトスはペルシャ軍に攻められ陥落する。このため「知」を愛する人びとの多くがイオニア地方から西方に移住し、哲学の中心地が南イタリアのシチリア島やエレアへ移る。

 ピタゴラス Pythagoras (BC 570~470? )は、数や図形が世界存在の元型をなす形相因であるとし「数にあやかって万物が生ずる」とした。自然を数学的に説明する手法は、後世のヨーロッパに伝わり、近代自然科学の確立に影響を与えた。
 クセノファネース Xenophanês (BC 560~470? )は、全宇宙を見通しつつ支配する創造主として一なる超越神を想定し、擬人神を否定した。超越神は思惟により世界を認識し動かすとして、知識による哲学を基礎づけ、神々が人間のように活躍するギリシャ神話的思考から脱却した。
 ヘーラクレイトス Hêrakleitos (BC 535~475)は「万物は流転する/万物は一である」と唱え、ロゴス Logosの支配において万物が変化するとした。ロゴスとは世界の意味を創造する理性とか「火」(エネルギー?)とかであり、これの介在により世界は絶えず変化を繰り返すとした。

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中国の諸子百家

 ドイツの哲学者カール・ヤスパースKarl Jaspers(1883~1969)が「基軸(枢軸)の時代」Age of Axisと呼んだBC6~5世紀を中心とする時代に、中国大陸でも大きな思想潮流があった。黄河流域は東西南北から文化・文明が流入する情報の交差地で、各地の勢力がめざすところとして「中原」と呼ばれたが、ここでの政治的混乱が思想的成果を生みだした。
 「中原」では、BC14世紀に北方から進出した部族が殷王朝を建て、BC11世紀には西方の部族が西周王朝を興した。これらは諸部族の連合による王朝で、呪術的要素をもつ上帝(天帝)思想を支配の基盤とした。
 西周が衰えてBC770年に都を洛邑へ移して東周となり、このときからBC221年に秦王朝による統一が成るまでは小国分立状態が続いて「春秋戦国時代」と呼ばれる。各小国が弱肉強食と富国強兵を競う乱世が続いて5世紀間に及んだので、いかに政治的安定と社会秩序の回復を図るかが課題であった。
 このとき「諸子百家」と呼ばれる多くの思想家が現れ、百家争鳴の議論を展開した。内容は政治的統一をいかに図るかという現実的課題に対応するものであり、人の内面的な魂の救済に向かうのは「道家」に限られた。こうした傾向が中国思潮の特色となり、今日に至る。以下に、その概要を示す。

 「儒家」では孔子(BC551?-479)、孟子(BC372?-289? )など多くの儒者が輩出し、孝(先祖の祭祀)、悌(年長者にしたがう)、仁(人への思いやり)、礼(伝統に裏付けられた制度を尊ぶ)などの徳目を重視した。これらの実践により儀礼と人間関係の安定を図り、そのもとで各人が自己実現をめざすべきことを説いた。
 乱世が続く間は為政者に受け入れられなかったが、BC202年に漢王朝による統一がなされると、儒教一尊化が進んだ。7代皇帝の武帝(在位BC141~87)は、董仲舒(BC176?-104? )の献策を入れて五経博士を置き、儒家の経典の五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)を教えさせた。官吏の採用には地方からの推薦制の“郷挙里選”を採り入れ、儒学の素養などを尋ねた。
 後漢期(AD25~220)には儒教が国教化され、唯一の正統思想となった。南宋期(1127-1279)には朱熹(1130-1200)が朱子学として再構成し、朝鮮・ベトナム・日本に伝わった。

 「道家」は老子(BC6世紀? )や荘子(BC370-300)が説いた教えとされ、宇宙の始原として「道」を構想し、無限定なるものが万物を生み出すと考える。道の流れに逆らわずに自然に生き、無理をせず一歩退いて無為自然に生きる。自らの徳を発しつつ周囲に存在する無数の徳を尊重しつつ生きれば、創造的で調和が取れ互恵的結果をもたらされる。人は社会のなかに組み込まれているが、同時にさらに大きな自然のなかに組み込まれている。
 こうした考えを基盤として、長寿法、医薬(本草学)、煉丹術・錬金術、風水、厄除け、神仙術、占星術などに関する中国古来の知恵が生み出され、これらが一体となって道教という土着宗教が形成された。北周期(AD557~581)には、儒教、仏教と並ぶ3大宗教のひとつとなり、台湾、香港、シンガポールに広がり、日本の民間信仰や習俗にも影響を与えた。
 隋王朝(589~618)は道教と仏教を重んずるいっぽう、605年に「科挙」を導入して詩文の能力や四書五経の知識を問う選抜試験により官吏を登用した。北宋期(960-1127)には高級官吏のすべてが科挙の合格者となり、制度は清朝末期まで続いた。
 唐王朝(618~907)は一貫して道教を重んじ、6代皇帝の玄宗は721年に道士皇帝と称した。15代皇帝の武宗は仏教を弾圧した(845年 会昌の廃仏)。

 「墨家」は、墨子(BC480?-390? )を祖とする集団が唱えた主張で、万物の主宰者として天があるように万民の主宰者として君主を認めるが、天が万物をいつくしむように君主は万人に福利をもたらすべきことを説いた。集団が唱えた「十論思想」は10項目からなり、兼愛(あまねく人を愛する)、尚賢(能力主義の人材登用を勧める)、非攻(侵略は最大の悪である)、非命(宿命を否定し万事に奮励努力を求める)、節用(節約し無駄をなくす)などが含まれる。
 乱世の終息法として儒家と主張を競ったほか、秦王朝の苛烈な姿勢の対極にあったことから、始皇帝が焚書坑儒において厳しく弾圧した。このため残された資料が少ないという。

 「兵家」は、戦いを目前にした国家の対処法を説き、孫子(BC380?-320? )に代表される。戦争は消耗するから極力避けること、戦わずして勝つ非戦の術が緊要であること、勝ち目のない戦争はしないこと、戦いにおいては拙速な短期決戦やだまし討ち(詭道)を勧める。このため権謀術数、間諜、廟算(情勢分析)などの重要性を説いた。

 「法家」の商鞅(ショウオウ BC390-338)、韓非子(BC280?-233)などは、成文法の整備という現実主義的な統治法を主張した。君主権や官僚制を強化して、信賞必罰、軍爵制(軍事的功績に応じて爵位を与える)、刑名参同(言ったことと実際の行動・功績とを比べて査定する)などの法整備による秩序回復を説いた。
 BC221年に中原を統一した秦の始皇帝(在位BC221~210)は法家の考えに則り、法による支配をめざした。ただし焚書坑儒の令(BC213/212)など苛烈な施策を採ったため、短期間で滅んだとされる。

 「縦横家」は、中原において秦の勢いが台頭する情勢下で、周辺国が選ぶべき外交策を巧みな弁舌と奇抜な趣向に依って弁じた。蘇秦(?-BC317)は強力な秦と垂直的に同盟し生き残りを図るべきとする合縦策を、張儀(?-BC309)は諸国が横断的に連合して秦に対抗すべきとする連衡策を提起した。

 このほかにも次のような思想家が登場した。
 楊朱(ようしゅ BC370?-319?)は「賢愚貴賎も死ねば骸骨である」と述べて楽生や美服を勧め、快楽主義・個人主義を主張した。恵施(けいし BC370?-310?)・公孫竜(BC320-250)は「名家」と呼ばれ、名実論などの論理学を展開した。鄒衍(すうえん BC305-304)は陰陽五行説や五徳終始説を唱える「陰陽家」で、水・火・金・木・土の5気の循環により王朝が興亡するとし、水徳である秦の興隆を予告した。

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信愛(バクティ)& タントリズム(秘密宗教化)

 5世紀半ばから、インド亜大陸の北西部は匈奴の攻撃を受ける。長く統一を維持したグプタ王朝もしだいに衰え、アフガニスタン東北部で興ったエフタル族が侵入して550年に滅亡する。7世紀前半に、ヴァルダナ朝のハルシャ王が北インドを一時支配するが、以後の600-700年間は政治的な分裂が続く。13世紀初には、デリーに中心を置くイスラーム王朝の北インド支配が始まる。
 この間、経済社会面では職業が多様化するなかで男系による世襲が進み、食卓や婚姻を共にする内婚集団である「ジャーティ」(出生)が育つ。ここにおいてヴァルナ(肌色)による4身分制(バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラ)が発展して、インド社会にカースト制が根付く。
 分権的な地位にとどまった多くの王は、クシャトリア出身であることを権力の根拠としたので、ヴァルナ(カースト)制を擁護した。バラモンはその主張を正当化することで自らの権威を高め、政治的地位を強化して国家行事に参画した。
 仏教やジャイナ教は、身分差別に批判的なことから、このような社会的浸透力を得ることがない。くわえて次に述べる2つの宗教的うねりのなかでしだいに存在感を失い、亜大陸の宗教における地位でヒンズー教に逆転を許した。

 第1のうねりは、神々への熱烈な帰依を歌って踊る信愛(バクティ)運動である。慈悲深い神への思慕と憧憬を心に抱き、ひたすらなる信仰心を訴えて神との直接的な交感を図るもの。村から村へとめぐる吟遊詩人が登場し、神への讃歌を唱えることで、爆発的に広がった。神に無条件にゆだねることを重視し、『ヴェーダ聖典』に関する特別の知識や動物の供儀はもちろん、出家などの苦行も不要とした。このため知識や実行力に欠けると自認する人びとに浸透し、宗教の大衆化と土着化を進めた。
 信愛運動が7世紀のころに南インドで始まったときには、仏教やジャイナ教の影響もあったとされるが、各地に伝播する過程でヴィシュヌ神とシヴァ神への讃歌が圧倒的になる。イスラームの神秘主義との交流も見られた。

 第2のうねりは、下層民を中心に展開したタントリズム(性力崇拝などの秘密宗教)である。最高神を観想しつつヨーガや手印を用いて肉体を制御することにより、神を勧請し、自らの心臓の上に顕現させ、神との合一(一体化)を図るもの。実践では、師資相承(ししそうじょう)される秘密の聖句(マントラ)などを必要とするが、高度な哲学や修行は不要とする。そのいっぽう、日々の暮らしや欲望をそのまま肯定したので、一般大衆に容易に受け入れられた。
 勢いにかげりの見えた仏教の側でも、同様にタントリズムを取り入れる宗派が現れた。秘密の呪句(陀羅尼=だらに)や印契(いんげい)などの儀軌を採り入れ、これらが師匠から弟子へと、面授により師資相承されることを建前とした。

 7世紀から8世紀にかけてインドで成立した『大日経』と『金剛頂経』は、観想、灌頂、護摩、印契、真言、曼荼羅(マンダラ)などに関する実践法を体系化し、純密or中期密教の仏典とされる。ここでは法を説くのは釈尊ではなく大日如来(毘盧遮那仏)となり、祈りの現場では口密(真言を唱える)・身密(印相を結ぶ)・意密(心に瞑想する)の三密行を実践する。密教世界の縮図とされる胎蔵と金剛界の両部曼荼羅を観想し、自らのうちに仏を体現して即身成仏する。(次の写真は両部曼荼羅)両界曼荼羅.JPG
 『理趣経』を日常的に読誦する仏典として重視する。なかでは男女の性愛の言葉を用いて悟りの境地が述べ、祈祷により絶対的な安楽と堅固な真実にいたることを説く。さまざまの欲望も一部を見れば汚れた部分もあるが、より高い見地から見ると、それ自身の本性は自性清浄である。業(ごう)や煩悩は否定されるべきものではなく、むしろ聖化して受け入れることにより、悟りをめざすべきとする(煩悩即菩提)。
 密教化した仏教は、我が国へは平安時代に空海により伝えられた。祈祷の実践によって、国家鎮護・病気治癒・願望成就などの効験が期待された。

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ヒンズー教の神々

 インド亜大陸には、歴史上、さまざまの神格が登場した。多神教のもとで、ヒンズー教徒はどの神に祈りを捧げるのであろうか。
 アーリア人が到来する以前には土着神の神々があり、インダス文明の遺跡からも地母神や男根の像が見つかる。アーリア人が持ち込んだ『ヴェーダ聖典』には自然現象を神格化したさまざまの神への讃歌があり、そのなかでインドラ(雷の神、仏教の帝釈天)とアグニ(火の神)に対するものが多かった。『2大叙事詩』ではクリシュナ神などが登場した。
 多くの神々が登場するなかで、どの神を最高神として重視するかは、時代により変遷があったようだ。非アーリア系の土着神がよみがえったり、神々が混淆したりして、しだいにシヴァ神、ヴィシュヌ神、女神の3神の人気が高まった。宇宙の根本原理を神格したブラフマー神が構想され、これを最高神とする動きもあったが、理念的な神は民衆の間に浸透しなかった。
 こうして3神を最高神とする3つの宗派がヒンズー教の中枢を形成し、他の神々は3神の眷属である妃神や子ども神になったり、3神の化身や権化とされたりして、支派を形成する。
 人びとはこれらのなかから自らが好む御本尊を選び、それに関する『プラーナ文献』を規範として宗教生活を送る。かくして多神教ながら個々の信者には、一神教的な創造主が存在する宗教体系ができあがった。リンガ/ミーソン遺跡.JPG

 シヴァ Siva :もとは土着の破壊神であったものが『ヴェーダ』の暴風神ルドラと同一視され、受け入れられた。モンスーンの破壊と雨後の蘇生を象徴し、破壊と創造、残忍と慈悲の両面をもつ。インダス文明に起源をもつリンガ(男根)崇拝と結びつき、多産・豊穣・吉祥の神威をも象徴する(写真はベトナムのヒンズー文明・ミーソン遺跡のリンガ)。
 各地に土着する神々を眷属として包摂し、後述する女神はシヴァ神の妃神とされる。シヴァ神の2人の息子神は我が国にも伝わり、ガネーシャが招福をもたらす歓喜天or聖天として、スカンダが仏法の守護神である韋駄天として祀られる。

 ヴィシュヌ Vishnu :地上から天界まで3歩で踏破するという非アーリア系の太陽光照神が『リグ・ヴェーダ』に取り入れられ太陽光の神格となる。危機が迫るまで海に漂う大蛇(蛇王)の上で眠り、不正義が世界を覆うとき、ガルーダ(霊鳥)とヒトが結合した姿となって顕現し、新たな創造を担う。
 正義と慈悲を象徴する創造主で、魚、亀、猪、人獅子などに化身することが一般的だが、信ずる者にとっては『マハバーラタ』のクリシュナ神、『ラーマーヤナ』のラーマ王、仏教の開祖である仏陀も、ヴィシュヌの化身であるという。

 シャクティ Sakti(デーヴィー女神):インダス文明の遺跡からは地母神の像が見つかるが、『ヴェーダ』には女神を最高の神格とする例がなかった。土着の女神がシヴァ神の妃神として眷属に加えられ、インドの伝統に組み込まれたものであろうという。
 美と戦いの女神であるドゥルガー、黒色で猛々しい女神のカーリー、豊穣と幸運の女神であるラクシュミー(仏教の吉祥天)、学問と技芸の女神であるサラスヴァティー(七福神の弁財天)など、さまざまの姿で顕現するが、究極的には同一の神であるという。性力(シャクティ)を象徴する。
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ヒンズー教の成立

 難解な宗教哲学ができたところで、教義が民衆に広がるわけではない。グプタ朝期は古代文化の黄金時代とされ、その間、次に挙げる宗教に関わる2種の著作が作成された。これらが民衆の心に根付いて、バラモンが主導するヒンズー教が成立した。

 第1に、インドの口承文学の伝統を踏まえ、多くの神話と伝統を含む「2大叙事詩」が完成した。長年にわたり吟遊詩人やバラモンが各地を遍歴しつつ口誦することで、新たな説話や伝説が織り込まれ、長大な詩節から成る叙事詩となった。
 『マハバーラタ』は「バラタ族の戦争を物語る大史詩」という題名で、2つの王家が北インドの覇権をめぐって競う物語である。全18巻、約10万の詩節で成り、世界最大の叙事詩とされる。BC4~AD3世紀に整備された。
 『ラーマーヤナ』は「ラーマ王子の行状記」という題名で、ラーマ王と悪魔とが地上の王国の覇権を争う物語である。全7巻、24,000詩節で成り、BC2~AD2世紀に編纂された。
 これらでは多彩な能力を持つ人物が登場し、矛盾を抱える情勢のなかで、葛藤と相克に満ちた選択を迫られる。その生き様がわかりやすい譬え話や訓話として民衆に語られ、人びとへの教訓となり、倫理感を形成した。

 第2に、叙事詩の内容をさらに発展させて『プラーナ文献(伝承聖典)』の編纂が始まった。古くから伝えられる神々や王族の伝説をもとに、多くの語り手が新たな情報や知識を付け加え、ヒンズー教の聖典となる。数多くの文献があるなかで、重要視される18の文献が『大プラーナ』と呼ばれ、これらがAD5~10世紀に成立した。
 それぞれは宇宙論、神々の神話、王朝の歴史をはじめ、生きる目的、宗教上の誓い、祖霊崇拝、神殿や祭式、巡礼地、カースト制のほか、音楽、医療、法制、哲学、伝統、習俗に及ぶ情報の集大成である。誕生・結婚・出産・葬式など人生の通過儀礼や祭式・清浄法・喜捨など日々の生活に関わり、民衆に浸透した。
 これら2つの著作の思想が、バラモンの主導する祭祀や儀礼に溶け込み、亜大陸の人びとの生活や思想に根づいた。ここにインドの民族宗教の姿が整い、ヒンズー教が成立した。

 ここでは一例として『バガヴァッド・ギーター:Bhagavad Gita』(神の歌)と称する文献の内容を紹介しておこう。もとはクリシュナを最高神とするバーガヴァッタ派の聖典であったものが『マハバーラタ』の一部として取り入れ、ヒンズー教の重要な教説を含むという。バーガヴァタ・プラーナ(東博).jpg
 サンスクリット語で書かれたものが18世紀にヨーロッパで翻訳され、シュレーゲル、フンボルト、ヘーゲルなどの思想家に取り上げられた。マハトマ・ガンジーが座右の書としたことでも知られる。(写真は「バガヴァッド・プラーナ」と題する絵/東京国立博物館)

 文献の中身は「戦士アルジュナ」と「クリシュナ」の対話に終始する。アルジュナは開戦前に敵将のなかに親族や師を見つけ、座り込んで戦いに立とうとしない。これに対し、人であり神であるクリシュナが、宗教的な理由や立場を挙げて決起を促す場面が描かれる。
 まず、神であることを明らかにしない「人間クリシュナ」が説得する。“人は死んでも個我は永遠不滅だから罪にならない。クシャトリアという戦士階級は戦うことが義務であり、無私の行為である。梵我一如に達すれば、行為をしても行為をしたことにはならない”などと説くが、アルジュナは立たない。
 次いで「神クリシュナ」であることを明かし、最高神として畏怖すべき存在であると宣言したうえで“私に帰依せよ。信愛(バクティ)せよ。恩寵により、あなたは最高の寂静と永遠の境地に達するであろう。我執により私の教えを聞かなければ、あなたは滅亡するであろう”などと、押したり引いたりして決断を迫る。それでもアルジュナは立たない。
 最後に、神の究極の秘密である最高の言葉として“一切の行為の結果を放擲(捨離)して私のみに庇護(助け)を求めよ。私はあなたをすべての罪過から解放(救済)するであろう。嘆くことはない”と発する。これを聞いて、遂にアルジュナが立つ。
 どうやら“他力本願的”に神に向かうべきことを説いているようだ。

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六派哲学の成立

 ガンジス川の中・下流域で仏教とジャイナ教が伸長し、マウリア王朝(BC317~BC180)のもとで脚光を浴びた。亜大陸の西北部を中心としたクシャーナ朝(AD45~500頃)のもとでは、大乗仏教が展開した。これら新宗教は各人の精進と努力を説くから『ヴェーダ聖典』が讃える神々を重んじない。
 司祭階級であるバラモンは、主宰する祭式や儀礼が支持されず、自らを上位とするヴァルナ(肌色)による格付けも認められない。社会的に逼塞を余儀なくされたであろうが、民衆の日常生活や年中行事に関わって影響力を保持した。

 4世紀にグプタ王朝(AD320~550)が興り、マウリア朝と同じくガンジス川中流域のパータリプトラを首都とした。初代王のチャンドラグプタ1世(在位320-35)がヴィシュヌ神の信者であると公言したことは、バラモンを勇気づけたであろう。第2代のサムドラグプタ(AD335~75)が直接支配したのは亜大陸の北部にとどまったが、亜大陸の南部や辺境域に対する宗主権を獲得した。第3代のチャンドラグプタ2世(在位AD375~414、超日王)のとき最盛期を迎えた。
 歴代王の多くは、支配の正当化と安定を図るため、階位的秩序を重んじるバラモン教を国教とした。ヴィシュヌ神を信仰した王が多いが、シヴァ神を奉じた王もいた。
 経済的には農業が発展し、ガンジス川流域から中央インドやベンガルなど周辺域へも広がった。バラモンが農村に定住して自らの寺院を建設することが増え、南インドには6世紀のころまで仏教寺院であったものが、バラモン教ないしヒンズー教の寺院に転換した遺跡がある。国王によるバラモン教の儀式である「馬祀り」(聖馬など多くの動物を供儀する祭典)を行った跡も残る。

 仏教とジャイナ教が思想の体系性と普遍性を示したことに刺激され、バラモンの寺院でも主導する宗教に関する哲学研究の努力がなされた。有神論の立場を貫き、自らが持ち込んだヴェーダの神々にとどまらず、非アーリア系の土着神も取り入れた。
 これらの成果がAD5世紀のころまでに結実し、宇宙・人間存在・祭式・解脱などに関する6つの学派が生まれる。これらが「六派哲学」と呼ばれ、一体となってヒンズー教における正統哲学となる。

 <伝統的・保守的学派>
・ ヴェーダーンタ学派:『ヴェーダ聖典』を重視し、究極の実在であるブラフマンからの流出により世界が形成されるとする。各人が解脱を得るにはブラフマンと一体化すること、つまり「梵我一如」の必要を説く。ウパニシャッドを引き継ぐものとして、正統哲学の思索に関する中核的役割を担う。しだいに神秘主義的傾向を強めた。
・ ミーマーンサー学派:『ヴェーダ聖典』の祭祀や儀礼を宗教的義務であるとして重んじ、徹底的な服従と実行を求めた。これら祭事にかかる規定・由来・意義などを説いて、伝統的な祭事学と行動学の中心となる。

 <開明的・進歩的学派>
・ サーンキヤ学派:宇宙は精神的原理(動力因)と物理的原理(質量因)の2元で構成され、後者が前者に触発されることで、世界が開展し、転変する。各個が原因を内包する「因中有果」の立場に立ち、この理を悟ることが正統的解脱である。
・ ヴァイシェーシカ学派:原子の組合せにより世界は多元的に実在するとし、各個は原因を内包しない「因中無果」の立場に立つ。こうした自然哲学的な宇宙の原理を正しく認識することが、アートマンを正しく保つことになる。

 <全学派に共通する学問>
・ ニヤーヤ学派:正しい知識を得るには正しい認識方法が必要で、これには直接知覚・推論・類比・聖なる教え(信頼すべき人の教え)の4つがあるとし、全学派に共通する論理学をまとめた。大乗仏教で「空」を唱えた中観派と激しく論争した。
・ ヨーガ学派:ヨーガの技法により、身心を訓練し、欲を離れて精励することで自己の回復をめざす。精神と身体の統一により解脱を得る技法を整理・体系化し、全学派に共通する知識体系となる。
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大乗仏教(2)

 「華厳経」はAD1,2世紀からインドに伝わる多くの仏典が、4世紀ごろに中央アジアでまとめられたもの。上座部仏教を含めたすべての宗派の総合を企図し、実践を強調する膨大な典籍である。
 縁起の思想を発展させ「事事無碍(じじむげ)」を教えの根本とした。無碍とは障碍がないことを意味し、現象界は目に見えないところで因縁の連鎖や因果の網で繋がっているとする。万物は全体を構成する部分であり、因果性や同一性をもって何らかの形で細かく網合わされ(因陀羅網)、いささかの緩みもない。別々に見える事物も、真理の目で見れば互いに繋がっており、全宇宙は相依り相連なる「法界縁起」の世界である。
 とすれば衆生済度のために修行することは他人の利益にも連なる自利即利他であり、道を求める心には、すでに悟りが含まれる。ここに慈悲心をもって利他行に励む菩薩行道に根拠が与えられ「菩薩」という新しい仏が誕生した。呼び名はゾロアスター教のサオシュヤント(「人びとを利益するもの」の意)が起源とされ、インドとイラン高原の文化融合がみられる。
 事事無碍の思想をさらに発展させると、過去・現在・未来も繋がり合うこととなり、仏の「三身説」が説かれる。歴史的に存在した応身仏たる釈尊のほか、完全な功徳を有すべく未来に向けて修行する報身仏たる阿弥陀仏や薬師如来があり、現にいまも真理の法を説く法身仏たる毘廬遮那(ヴィルシャナ)仏が存在する。かくして現世は毘廬遮那仏によって厳淨される華厳の世界である。ボロブドゥール遺跡.jpg
 奈良の大仏は毘廬遮那仏である。インドネシアのジャワ島に残るボロブドゥール遺跡はシャイレーンドラ朝が8世紀に造った寺院で、華厳思想により造られたという。(写真は丸岡京一氏撮影)

 「阿弥陀経」「大無量寿経」「観無量寿経」は「浄土三部経」と称され「空」に飽き足らない人びとに極楽浄土を説いた。AD1世紀のころに北インドで成立したとされ、西洋の楽園思想の影響がうかがえる。
 「阿弥陀経」は現世を濁りの避けがたい末法の世であるとし、来世に期待を抱かせる。阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏の名号を一心不乱に思えば救われ、死後に極楽浄土に生まれるとする。我が国では時宗が重んじる。
 「大無量寿経」は阿弥陀仏の誓願を説き、浄土三部経において最大である。阿弥陀仏は法蔵菩薩であったとき48の誓願を立て、この願いが成就されなければ仏にならないとして修行に入った。誓願の第18番目に「衆生が至心に信じ願って我が極楽浄土に生まれようとして、10度でも念じたとする。もしその通りにならなかったら私は仏にならない」というのがある。法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏になっているから、願いは成就されたはずで、極楽浄土へ行くには念仏を唱えればいいとする。我が国では浄土真宗が重んじる。
 「観無量寿経」のみは、4,5世紀に中央アジアで成立した。阿弥陀仏と極楽浄土を思い浮かべる観相の仕方を説き、我が国では浄土宗が重んじる。

 「法華経」はAD1世紀半ばから100年ほどの間に、西北インドで作られたとされる。過去の仏典のすべてに存在意義があり、上座仏教も含めて根底は不二一体で、互いに相即・相関する統一的真理をもつ。法華経はこれらすべてを包摂する仏典であるから、奉ずる者に幸いがあり、非難する者には災難がふりかかる。6世紀に隋の智顗(ちぎ)が体系化して天台宗を開き、諸宗派の最上位に位置づけた。
 仏教の修行法には、釈尊の教えを聞いたまま実践する「声聞乗」、自らのために修行するが人には教えを説かない「縁覚乗」(上座仏教)、他人の利益を含めて自利利他をめざす「菩薩乗」(大乗仏教)の3つがある。「法華一乗」はこれらをひとつに融合したもので、ひとつの乗り物なのに異なる教えがあるのは、衆生を導く方便として仏がさまざまに法を説いたからである。
 時代を超えて法華一乗があるだけであるとすれば、これはゴータマ・シッダールタの教えではない。肉体を持った釈尊は衆生を導くため、仮に姿を現した方便的存在であり、久遠の太古に成仏した久遠実成仏(くおんじつじょうぶつ)が存在するはずである。時代と空間を超えた永遠の仏は普遍的存在であり、常住不滅の真如であるから教えは絶対的真理である。
11面観音偐(東博).jpg
 「観音経」は、法華経第25章の観世音菩薩普門品(ふもんぼん)で、本来は独立した経典であったものが法華経に取り入れられたものとされる。観世音菩薩は無量無辺の福徳をもち、その御名を唱えれば33の姿となって顕れ、大火・大水・風難・刀杖・悪鬼など7つの難儀から人びとを救い出し、欲・怒り・迷いの3毒から人びとを離れさせる。くわえて、子宝など人びとのさまざまの願いを叶えてくれる。(写真は十一面観音像/東京国立博物館)


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大乗仏教(1)

 その後のインドにおける仏教とバラモン教(ヒンズー教)の事情は、カール・ヤスパースが「基軸の時代」と呼ぶ時代(紀元前800~200年、とくに紀元前6~5世紀)から掛け離れる。ただし日本の宗教事情と関係が深いので、以下にまとめることとする。まずは大乗仏教の話。

 釈尊の入滅後、100年ほどの間、仏教の出家集団は一枚岩であった。しかし戒律の解釈の違いを機に、保守的な上座部と革新的な大衆部に分裂する。それぞれは独自に教学研究を進め、最終的には20ほどの部派に分かれる。
 大衆部系の部派では、修行一筋の教団(サンガ)での静謐な生活に飽き足らず、自己の悟りだけでなく、他人の救いの実現をもめざそうとする。これが在家信者の集団を中心とする改革運動となり、自らを“大きな救いの乗り物”である大乗仏教と称し、上座部系を小乗と呼んで軽んじた。
 大乗仏教では、釈尊の教えを深めたり、教えに新たな意味を見出したりして、出家者のみならず在家でも救われることを標榜する。民衆になじみやすい人格神的な諸仏を生み出したり、現世利益の傾向を強めたりする傾向を持つ新しい仏典を生み出す。そのなかで主なものを順に取り上げる。

 南インドの仏教僧であったナーガールジュナNāgārjuna/龍樹(AD 180~240)は『中論』を著し、関係性によって生ずるという「縁起」の思想を「空」と捉え返して「万物の根源は空」とする教説を立てた。「中観派」の祖師となり、大乗仏教の創始者とされる。
 この世の万物は本性において実体があるものではなく、存在するものすべては因縁によって、諸条件が合わさるなかで存在する。実体として自性があるのではなく、本性は「空」であるから、執着することはない。
 悟りの彼岸にいたる修行徳目として、六波羅密Pāramitā を掲げ「布施、持戒、忍辱(にんにく=堪え忍ぶこと)、精進、禅定、智慧」の6項目を示した。そのなかで“智慧(=般若)の完成”をもっとも重視した。海印寺・大蔵経.JPG
 これらに関する経典は600巻あるとされ「大般若経」「金剛般若経」などにまとめられた。「般若心経」はそのエッセンスで「色即是空 空即是色」の誦句で日本人に親しまれ、浄土宗系を除いた多くの宗派で読誦される。(写真は韓国・海印寺で掲げられる経文)

 「維摩(ゆいま)経」は、在家の資産家である維摩(「清浄」の意)居士を主人公とする物語であることから、その名がある。AD1~2世紀に成立したと推定され、出家者でなく、世俗のなかに優れた人物がいることを称揚する。
 仏典では「空」の思想を敷衍して「不二の法門(ふにのほうもん)」を説く。輪廻も涅槃も本質において「空」であるとすれば、対立するかのように見える2つの概念も、本来は2つではない。善と悪、正と邪、迷いと悟り、生と死などのように対立する概念も「空」の世界においては、2項対立のない「不二」である。より高い次元から見れば、本質的に繋がるひとつのものである。
 とすれば悟りも俗世間から離れた別のところにあるのでなく、善と悪が混然する現実の人間生活のなかで、実現されるべきである。出家者のみならず、世俗者の生活も肯定されなければならない。

 「勝鬘(しょうまん)経」は、維摩教に少し遅れて成立したとされる。女性信者で王妃でもある勝鬘(「美しい花飾り」の意)夫人が説く内容を、釈尊が一々是認する構成をとることで、その名がある。
 新たに「如来蔵」思想を説いて、在家向けの仏教を宣明する。すべての人には如来(仏)に成るべき資質が胎児のように蔵されており、在家者も悟りを得られると教える。
 我が国には早く伝わったようで、飛鳥時代の7世紀初めのものに『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)がある。法華経・維摩経・勝鬘経の3仏典の講義書(注解書)で、そのうち『勝鬘経義疏』が最初に成立したとされる。聖徳太子がこれらを著したとする説があるが、異説もある。

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仏教の展開

 釈尊の教えは、ガンジス川の中・下流域で交易や手工業を担ったクシャトリア層を中心に広がった。釈尊の入滅後、間もなくにして仏典結集が行われるほどの勢いがあり、南伝仏教(上座仏教)側の資料によると、第1回はBC477年、第2回はBC377年である。

 多民族が共生するインド亜大陸は、マウリヤ王朝(BC317~BC180)によって初めて政治的統一がなされる。ガンジス川中流域のパータリプトラ(華氏城)を首都とし、この地の出身であった初代王のチャンドラグプタ(在位BC317~BC 293頃)は、晩年に出家してジャイナ教の行者になったという。
仏塔 サールナート.JPG
 第3代のアショーカ王(阿育王 在位BC268-BC232)のとき最大版図となり、亜大陸のほぼ全域を支配した。王は権力簒奪とデカン高原の征服にあたって苛烈であったことを反省し、即位後8年に仏教信者になった。「ダルマ・法」による支配をめざして仏教色の濃い碑文を残し、多くの仏塔を建てた(写真は釈尊が初めて法の輪を転じたサールナートに建つ仏塔)。ただしジャイナ教やバラモンの教えの保護も宣言し、仏教に偏することはなかったという。
 即位後13年に仏教使節5人をギリシャ方面に送ったが、根付くことはなかったようだ。そのころ仏教は南インドへも広がり、AD244年に第3回の仏典結集が行われた。

 アショーカ王の没後、約50年にしてマウリヤ王朝は滅び、小国分立の時代となる。
 亜大陸の東にあったカリンガ朝のカーラヴェーラ王(在位BC209-BC170)はジャイナ教を保護した。東北部で興ったシュンガ朝(BC180-BC 65頃)の初代王は仏教を弾圧し、バラモン教を保護した。
 西北部ではマケドニアのアレクサンドロス大王の征服後、ギリシャ人が進出した。パンジャーブ地方を治めたメナンドロス(ミリンダ)王(BC155-BC 130)の時代の遺物には、法輪を刻した金貨や王の名前入りの舎利容器がある。その後は、遊牧民のサカ族、中央アジアにいた月氏族、イラン系のパルティア族などが進出した。

 さらに月氏系またはイラン系とみられるクシャーナ族が台頭し、亜大陸の西北部を中心としてクシャーナ朝(AD45~500頃)を開いた。歴代の王は文化的・宗教的に寛容で、仏教は大乗仏教の全盛期となり、ジャイナ教やバラモン教も刺激されて発展する。シヴァ神やゾロアスター教の遺跡も残り、文明の交流地であることから、東西文化の融合が進む。
釈迦座像 ガンダーラ(東博).jpg
 第4代のカニシュカ王(AD144∼173)のとき最大版図となる。王自身はゾロアスター教徒であったとされるが、仏教側は保護されたことを記憶する。仏典結集を助け(AD150年)、仏教詩人と交わったことが仏典に記されるほか、壮麗な仏塔を建て、釈迦像を刻んだ金貨が残る。
 現在のアフガニスタン東部にあたるガンダーラを中心に仏教美術が栄え、それまで釈尊をイメージするものは仏足跡・法輪・菩提樹であったが、ギリシャ彫刻との融合で仏像が造られた。(写真はガンダーラの釈迦像/東京国立博物館)

 イラン高原の東部が仏教圏であったので、大乗仏教(マーハヤーナ)Māhāyāna において生まれた阿弥陀仏、弥勒菩薩、観音菩薩はゾロアスター教の神々が採り入れられたもの。さらに弥勒信仰はメシア(救い主)思想の影響であり、浄土信仰は西洋の楽園思想の反映であろうという。この教えが中国を通じて、朝鮮、ベトナム、日本に伝わった。
 いっぽうスリランカには、マウリヤ王朝のアショーカ王のとき、マヒンダ王子が僧侶らと来朝したとの伝承が残る。ここが上座仏教(テーラワーダ)Theravāda の源流となり、東南アジアなどインドと風土が類似する一帯に広がった。
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釈尊の悟り

 ゴータマ・シッダールタ Gautama Śiddhārthaは、16ヵ国が並立するカンジス川中流域で、4大国のひとつのコーサラ国に従うシャーキヤ族の王子として生まれた。結婚して男児を設けたが、人生に生病老死という免れ得ない「苦」があることを嘆じ、29歳のとき出奔した。修行と瞑想の生活に入り、自由思想家に混じって無神論・不可知論・因果応報論などに触れ、苦行にも身を投じたであろう。35歳のとき菩提樹の下で大悟し、各地を伝道して、80歳で入滅した。
 生没年について、スリランカにはBC566-486年と伝わるが、我が国の仏教学者らはBC463-383年などとし、両説に100年ほどの開きがある。悟りを開いたのち、仏陀、釈迦、釈尊と呼ばれる。釈迦苦行像 建長寺.jpg

 釈尊が遍歴と苦行ののちに得た悟りは、まことに自然で、合理的ともいえるものであった。人生の「苦」の原因に関して洞察の限りを尽くしたが、生前からの“業”の蓄積によるものではない。生命の根底にある生存欲に発するものであり、苦行によって解消できるものではなく、かといって快楽の限りを尽くしても得られるものはない。(写真は建長寺の釈迦苦行像)
 こうした実体験から、辿るべき道は苦にも楽にも偏しない「苦楽中道」にあるとする。これが後述の「八正道」に繋がる。

 この世の認識について、輪廻転生や霊魂などに固定的な実体を認めず「諸行無常」「諸法無我」であるとする。万物は移り変わるものであり、本性的な実体をもつものではない。存在するのは関係性によって条件づけられ“縁りて起こる”仮の姿というべきもの。かくして「此れあれば彼れあり、此れ生ずれば彼れ生ず、此れなければ彼れなく、此れ滅すれば彼れ滅す」という「縁起の法」を説いた。
 縁起についてさらに徹底的な考察と観想を進め、人間存在の根底に「無明」という迷いと無智の状態があり、これから「生死」にいたる「十二支縁起」を見出した。「無明→行(衝動)→識(識別)→名色(対象)→六処(6つの感覚器官)→触(接触)→受(感受)→愛(渇愛)→取(執着)→有(存在)→生(誕生)→老死」と繋がる連鎖である。これによって生老病死の苦しみが生まれるのであり、「苦」から脱するには、この連鎖を断つよりない。

 以上を分かりやすく説明する手立てとして「四諦の法門(苦集滅道)」を説いた。「苦諦」とは生きることが「苦」であると知ること。「集諦(じったい)」とは縁起の法により「苦」の原因が渇愛にあると知ること。「滅諦」とは無常なものに執着する煩悩を断って、涅槃の境地に至ること。「道諦」とは正しい道を歩んで「苦」に遭わないようにすること。
 正しい道の実践法として、釈尊が実際に語ったかどうか定かではないが「八正道」を励むことが説かれる。「正見、正思惟、正語、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進、正念(正しい意識)、正定(正しい禅定)」の八道である。ここにおける「正」は妥当の意味に近いとされ「中道」に通じる。

 インドの思想には古くから“因果律”の考えがあった。バラモンの教えには「欲望→意向→行為→果を得る」という連鎖の記述がある。ジャイナ教は「怒り→高慢→偽り→貪り→妄執→嫌悪→愛欲→苦」という因果の連鎖を掲げ、これを断つべきことを説いた。これに対して釈尊は、人間存在の根底にかかる因果の連鎖を把握し「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」と宣明した。
 のちに高名な仏弟子となる舎利弗(サーリプッタ)と目連(モッガラーナ)が他の師の弟子であったとき、すでに仏弟子であった阿説示(アッサジ)から「釈尊の教えが縁起である」と聞いた。このとき両名は直ちに仏弟子になると決意したという話からも、釈尊の悟りの根幹が「縁起」であると察せられる。
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