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仏教の展開

 釈尊の教えは、ガンジス川の中・下流域で交易や手工業を担ったクシャトリア層を中心に広がった。釈尊の入滅後、間もなくにして仏典結集が行われるほどの勢いがあり、南伝仏教(上座仏教)側の資料によると、第1回はBC477年、第2回はBC377年である。

 多民族が共生するインド亜大陸は、マウリヤ王朝(BC317~BC180)によって初めて政治的統一がなされる。ガンジス川中流域のパータリプトラ(華氏城)を首都とし、この地の出身であった初代王のチャンドラグプタ(在位BC317~BC 293頃)は、晩年に出家してジャイナ教の行者になったという。
仏塔 サールナート.JPG
 第3代のアショーカ王(阿育王 在位BC268-BC232)のとき最大版図となり、亜大陸のほぼ全域を支配した。王は権力簒奪とデカン高原の征服にあたって苛烈であったことを反省し、即位後8年に仏教信者になった。「ダルマ・法」による支配をめざして仏教色の濃い碑文を残し、多くの仏塔を建てた(写真は釈尊が初めて法の輪を転じたサールナートに建つ仏塔)。ただしジャイナ教やバラモンの教えの保護も宣言し、仏教に偏することはなかったという。
 即位後13年に仏教使節5人をギリシャ方面に送ったが、根付くことはなかったようだ。そのころ仏教は南インドへも広がり、AD244年に第3回の仏典結集が行われた。

 アショーカ王の没後、約50年にしてマウリヤ王朝は滅び、小国分立の時代となる。
 亜大陸の東にあったカリンガ朝のカーラヴェーラ王(在位BC209-BC170)はジャイナ教を保護した。東北部で興ったシュンガ朝(BC180-BC 65頃)の初代王は仏教を弾圧し、バラモン教を保護した。
 西北部ではマケドニアのアレクサンドロス大王の征服後、ギリシャ人が進出した。パンジャーブ地方を治めたメナンドロス(ミリンダ)王(BC155-BC 130)の時代の遺物には、法輪を刻した金貨や王の名前入りの舎利容器がある。その後は、遊牧民のサカ族、中央アジアにいた月氏族、イラン系のパルティア族などが進出した。

 さらに月氏系またはイラン系とみられるクシャーナ族が台頭し、亜大陸の西北部を中心としてクシャーナ朝(AD45~500頃)を開いた。歴代の王は文化的・宗教的に寛容で、仏教は大乗仏教の全盛期となり、ジャイナ教やバラモン教も刺激されて発展する。シヴァ神やゾロアスター教の遺跡も残り、文明の交流地であることから、東西文化の融合が進む。
釈迦座像 ガンダーラ(東博).jpg
 第4代のカニシュカ王(AD144∼173)のとき最大版図となる。王自身はゾロアスター教徒であったとされるが、仏教側は保護されたことを記憶する。仏典結集を助け(AD150年)、仏教詩人と交わったことが仏典に記されるほか、壮麗な仏塔を建て、釈迦像を刻んだ金貨が残る。
 現在のアフガニスタン東部にあたるガンダーラを中心に仏教美術が栄え、それまで釈尊をイメージするものは仏足跡・法輪・菩提樹であったが、ギリシャ彫刻との融合で仏像が造られた。(写真はガンダーラの釈迦像/東京国立博物館)

 イラン高原の東部が仏教圏であったので、大乗仏教(マーハヤーナ)Māhāyāna において生まれた阿弥陀仏、弥勒菩薩、観音菩薩はゾロアスター教の神々が採り入れられたもの。さらに弥勒信仰はメシア(救い主)思想の影響であり、浄土信仰は西洋の楽園思想の反映であろうという。この教えが中国を通じて、朝鮮、ベトナム、日本に伝わった。
 いっぽうスリランカには、マウリヤ王朝のアショーカ王のとき、マヒンダ王子が僧侶らと来朝したとの伝承が残る。ここが上座仏教(テーラワーダ)Theravāda の源流となり、東南アジアなどインドと風土が類似する一帯に広がった。
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