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自然宗教の誕生

 今回から、宗教論を展開します。

 「生きる目的は何か」「世の中はこの先どうなるのか」など、我々の人生や世界の前途は不分明である。多くの人びとにとってこの世は見通し難く、解明不可能な問いに満ちている。このため、宗教への関心が絶えることはない。
 どのような人でも一定の努力を尽したあとは、どこかで思いを断ち切るよりない。可能な限りの追究を行ったあとは、何かに判断をゆだねることになる。自分に納得のいくものに気持ちをまかせて、あとは「祈る」のみである。「宗教など信じない」と豪語したところで、あらゆることを自らが差配し、結論づけることなど不可能である。
 というような経験があって、ヒトは人生のあるときに宗教に目覚める。宗教への造詣を深めることは思想を豊かにする。ただしどういう契機でどのような宗教に接するかによって、人生航路は大きく変わる。十分に心しなければならない。

 「宗教とは何か」について、正鵠を期したであろう裁判所の判例を引用すると、次のとおり。(津市 地鎮祭事件 名古屋高裁判決 昭和46年5月14日)
 「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」
 どうやら目に見えない世界(超経験的実体)を信じることのようである。これはいかなる民族にも共通する普遍的な感情で、現在、狩猟採集の生活をおくる未開社会の人びとも宗教心を持っている。このことがフィールドワークを行う文化人類学者によって報告される。

 現代人にとって世の中は不可思議に満ちているが、未開社会ではもっと深刻で差し迫った問題であった。生きるために狩猟・漁撈・採集によって食糧を得、やがて農耕に取り組むことになるが、これらから得られる収穫はつねに不確実・不安定である。天変地異があり、収穫の好不況があり、こうした変動は予測不可能である。見通しがたい自然条件に依拠しており、変化の原因や見通しは理解を超えている。
 太陽、月、金星などの天体は、ときに不可思議な動きをする。風、雷、雨などの自然現象は恵みをもたらすとともに、災害の対象でもある。狩猟の対象である牛、鹿、ラクダ、ヌビア・アイベックス(砂漠のヤギ)などの獣類、海で獲れる魚介類、採集する堅果類や植物の根などは「祈り」をもって収穫する。
 自然は恵みを与えてくれる一方で、危険や破壊の原因である。自然には尊崇の念とともに脅威を感じ、賞嘆とともに畏れの対象である。自然現象の有為転変を見守るうちに、自然物のなかに霊魂や精霊などの精神的要素を感得して「精霊信仰(アニミズム)」が生まれる。アニマとはラテン語で生命とか魂とかを意味する言葉である。

 さらに自然の動きのなかに神秘的なエネルギーや力(呪力や霊力)などを観取し、これらに祈る「呪力信仰(マナイズム)」が生まれる。諸力が行き交う超自然的領域との交信や交渉の必要性が感じられ、力能を有すると信じられる職能者が選ばれて、シャーマン(霊能者、呪術師)となる。
 マナとはポリネシア語で「聖なる力」を意味するという。シャーマンの語源はツングース語のサマン(知識があるもの)であるとも、インドのシュラマナ(遊行者、沙門)に由来するともいう。
 このような自然に対する信仰に関連して、さまざまの段取りや儀式が生まれる。自然の恵みを得るには、祈るヒトの側にも交換条件として犠牲が必要であると観念され、供え物が創案される。状況に応じてヒトの自傷行為が薦められ、人身供儀にいたることもある。
 かくて一個の祈りのシステムとして「自然宗教」が誕生する。

 自然物における霊魂の存在が意識されると、ヒトの「死」に際しても霊魂の行方が問われる。死者の蘇りや再生が祈られたり、死後の世界への旅立ちが観念されたりする。死は穢れを感じさせるから、扱いを誤れば祟りや悪霊に転ずる畏れもある。死者を丁重に扱い、畏れ、敬い遠ざける手順として埋葬儀礼が発達する。
 遺体に食料を供えたり、護身用の石器や矢筈を副葬したりするのは、不自由のない旅立ちを願うものであろう。胎児のように縮こまった体勢で埋めたり、東枕にして日の出のエネルギーを得たりするのは、死者の再生を祈る行為であろう。我が国の古墳様式で、古くは埋葬施設が東西方向に設けられたのは、ここに起源があるのではないか。
 東アジアでは、一定の時期に死者の魂を呼び起こす招魂の慣習ができた。祖先を尊び、その魂を呼び起こして、その力やエネルギーに頼もうとした。
 かくして死者を丁重に扱い、祈る儀礼が定まり「祖先信仰」が生まれた。
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