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外貨建ての成長率

 最近の我が国の成長率は、引き続く円高基調を背景に、2008年のリーマンショック、2010年以降の欧州金融危機、2011年の東北大震災などのあいつぐ経済困難によって低迷を続けている印象があります。ところでこれまでの成長率は、国内にいる日本人の実感を把握するため当然ながら円貨で表したものを用いました。
 しかし外国から日本経済を眺めると、当然ながら外貨建てで経済規模を見ることになります。日本経済が円貨表示で低成長であったとしても、外から眺めた日本経済は着実に大きさを増しているかもしれません。そこで現在のところもっとも共通的な国際通貨であるドル貨表示によって日本の成長率を計算するとどうなるでしょうか。近ごろ著しく円高が進みましたから、違った光景が見えてくるかもしれません。
 今回に掲げたグラフは、日本のGDPについて1955~2010年間における各年の名目値をその年の平均の為替レートによってドル換算し、前年に対する伸び率を計算したものです。為替レートはしばしば大きく変動しますから成長率の変動も大きくなりますが、これまでの項で示した円貨で表した名目成長率とはかなり違った印象になるのではないでしょうか。
 つまり円貨で表示した場合には、成長率が趨勢的に低下しているかのような印象がありますが、ドル貨表示にすると1990年ごろに大きな段階的な変化があってそれ以降は成長率が低い状態で横ばい基調が続いているという印象になります。
 そこで数年間ごとにドル換算による名目成長率の平均を計算してみます。単純平均になりますが、1956~2010年の55年間の平均値は10.9%です。15~20年ごとに区切って計算すると、1956~1970年の15年間の平均値は15.6%、1971~1990年の20年間の平均値は15.2%、1991~2010年の20年間の平均値は3.2%となります。
 1990年以降は、しばしば「失われた20年」などと呼ばれますが、成長率について大きな屈折点を経験したことが明らかです。追いつき追い越せがたの段階が終了し、また労働人口も停滞ないし減少過程に入っていることを反映するものでしょう。したがって1990年前後からは日本が引き続き成長を遂げていくには、内生的な力でひとり当たりの付加価値率を高めること(生産性を高めること)以外にはないことを表しています。
 海外から技術導入によって生産性を高められる時代には生産性を高めることを手っ取り早く行えますが、内生的に新たな技術力や経営力を開発して生産性を高めるのは時間がかかります。急速な成長というのは実現がむつかしくなります。
 そういう状況のなかで、国際的な観点で見て平均3%程度の成長を続けていることは、我が国の産業企業が、それなりに必死で努力を重ねている結果であると考えられます。経済の前途に悲観的な見方をする人が多い日本ですが、こうした経済人の努力は正確に評価すべきでしょう。
外貨建て成長率.JPG

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「減成長」?

 前項で言ったことをまとめますと次のようになります。
 我が国の場合、労働力人口が減少局面に入っているので経済の成長率を高めることがむつかしくなっています。しかしながら環境や資源の制約に大きな負担をかけないで、我が国においても経済成長を追求し、雇用の拡大を図ることは可能でしょう。非製造業で新機軸を打ち出して投資を増やすこと、さまざまの新技術や新手法を導入することによって生産性の向上を図ること、企業が新しい情勢の変化に対応して収益率を高めること、企業が新しい投資環境を追求することなどによって付加価値額の増加させ、一定の経済成長を確保することは可能です。また社会インフラやエネルギー環境などを整備することなどは経済活動の効率性を高めて成長に資するでしょう。こうした方途を追求することは、人類がこれから地球上でより豊かに生活する知恵を生むことにつながるでしょう。
 ところで最近、書店で『経済成長神話の終わりー減成長と日本の希望』と題する本を見つけました。アンドリュー・J.サターという国際弁護士にして立教大学法学部教授が書き中村起子氏が翻訳したもので、2012年3月に講談社現代新書として出版されています。
 「経済成長神話の終わり」とは刺激的な書名ですが、よく考えてみれば今日の日本において成長神話を信じている人はほとんどいないでしょう。「減成長」という言葉が目新しいので買い求めましたが、フランス語のdécroissance の訳語だそうです。「デクルワサンスは、多くの場合非成長または脱成長と訳されている」と言いつつ、著者はこの本で減成長という訳語を使っています。
 この本において著者は、ゼロ成長論は「現実的ではない」とし、環境面が第一という反・成長論は「成長推進派に対して力不足」であるといい、エコロジカル・フットプリントや地球幸福度指数のような新しい指数を打ち出すのは「ツールとしては有用だろう。でもあくまでもそれらはダッシュボードであり運転手にはなれない」と主張しています。そこで新しい言葉として「減成長」を使うのです。「減成長による繁栄」が日本の目指すべき目標だというのが、この本の眼目です。
 具体的デザインとして「地方の活性化、農業、エネルギーと環境、労働、高齢化と年金システム(年金の耐久性を高める)、ヘルスケア医療を産業にしない)、教育、金融とグローバル化」の8項目を提示し、これらについて新しいストーリーを考える必要があるとします。
 その内容を概括すると「低・ゼロエミッション車両を使った地方公共交通を整備する、地方の市街地により多くの小売業やサービス業を起こす、JAを再編することによって有機農法・農産物の多様化の促進する、仕事ではなく人に付随する福利厚生を充実する。これらによって出生数を増やし、医療費を削減し、年金システムを強化し、コニュニティの拡大を目指す」などになりそうです。
 このようにまとめてみると「減成長=安定成長」と考えてもいいのではないかと思います。“減”成長というと、どの時期に対して減らすのかという質問が提起されますから、政府が目標として提示するときには安定成長という言葉を選ぶでしょう。政策の具体的中身も現時点で各省庁が唱えているものと、あまり変わらないような気がします。
 問題は、これらの政策を実行に移すには、反対ないし抵抗する勢力が存在したりしますから、なかなか実行に移せないことです。現在のように政局優先の政治情勢ではほとんど進まないでしょう。

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経済成長の要因分析

 就職前の若者にとっては経済成長率が高いことが好まれます。不安定な職場や職業に就いている人も経済成長が望ましいと思うでしょう。雇用、すなわち働く場を得られるかどうかは、それぞれの人生にとってきわめて重大な問題だからです。成長はもう十分と考える人は、すでに安定した職場を得ている人や高齢で十分な年金をもらっている人などでしょうか。
 それが証拠に我が国ではどの政党も景気回復や経済成長が重要だと訴えます。人びとの人気を得たいとか票が欲しいとかの動機があるのでしょうが「反・成長論」は政治の場では不人気です。地球の環境や資源問題などがさしせまっているなかで、成熟下にある日本経済が過去のような高度成長にまい進することは不可能ですが、現実の政治状況を前にして「成長はもういい」と主張するのは、いかにも無責任に思われます。
 そこで現在の日本経済の局面においても成長を目指すことができるかどうか、それがどういう形において可能かについて考えていきます。そのためには成長の要因分析が必要ですから、2011年末に内閣府が発表した「2011年の日本経済」のなかにある図を利用することとします。最近における潜在的成長率を計算するために内閣府で作成したものです。
 経済成長とは「前年に比べて国内で生み出される付加価値額を増大させることである」とすでに説明しました。前年に比べて付加価値額を増やす要因は何であるかを考えると、まず企業で働く人が増えたり労働時間が増えたりすることが考えられます。つまり「労働投入量」の増加です。また企業が新しい設備や機械を導入して活動を底上げすることも付加価値額を増やすでしょう。つまり「資本投入量」の増加です。
 この項で挿入した図はコブ・ダグラス生産関数を用いて、最近数年間の四半期ごとに労働投入量と資本投入量の増減が経済成長にどのような影響を与えたかを分析して算出したものです。X軸の上に位置する要因は成長を引き上げる方向に働き、X軸の下に位置する要因は成長を引き下げる方向に働いたことを示します。成長率分析.JPG
 労働投入量は就業者数と労働時間の2つに分けて示されていますが、最近は成長率を引き下げる要因になっています。高齢化や人口の減少によって、すでに労働力投入量を増やすのはむつかしい現状を反映しています。製造業および非製造業とあるのは2つの産業分野に分けて資本投入量が要因としてどのように働いたかを示すものですが、いずれも成長率を引き上げる方向に働いています。ただし製造業の資本投入量は成長率を高める要因として一定の働きを続けていますが、非製造業のそれは高める効果が次第に減少していることが窺えます。
 我が国の近い将来について考えますと「労働投入量」を増やすことは今後ともむつかしいでしょう。「資本投入量」を増やすことは基本的には民間企業の役割ですから、設備の過剰を見越してまでそれを勧めることはできませんが何かいい知恵はないでしょうか。非製造業を中心に、新しい工夫や新しい生活の楽しみ方を開発して、新産業を生み出したり需要を掘り起こしたりすることはどうでしょうか。まだまだ取り組む範囲が広いと思います。
 ところでこの生産関数を用いて成長要因の分析を行うと、労働と資本の投入量の増減だけでは説明しきれない部分が残ります。これが黄色で示された部分であり「全要素生産性」(TFP=Total Factor Productivity)と呼ばれます。労働や資本の投入量の増減では説明できない部分ですから「何らかの形で生産性が変化したもの」と考えたわけです。生産性というと骨身を削って努力するなどのイメージがありますが、それも含めて以下に示すようにさまざまの態様による生産性の変化を含めて「全要素」という言葉を冠したのでしょう。
 具体的にどういうものが「全要素生産性」による成長率引き上げにつながるのかを考えると、労働投入量と資本投入量に変化がなくても付加価値額が増加する場合ですから「技術革新」が実現したケースがわかりやすいでしょう。新技術によって高度な新商品・新サービスが生み出されて既存の商品・サービスに代替したり、新しい設備や手法が代替的に導入されたりして、労働ないし資本投入量の単位当たりの生産高が増える場合が「全要素生産性」の増加に該当するでしょう。この場合には実際問題として資本・労働の投入量が何がしか増える場合があるでしょうが、それまでの投入による効果以上の割合で付加価値額が増えれば「全要素生産性」要因による効果ということになります。
 そのほかにも「全要素生産性」による成長率引き上げ効果としては、次のような事態が考えられます。企業間の競争が緩やかになって企業がより儲かるようになること(収益性の向上)、新しい経営手法の採用などによって企業の経営効率が改善すること(新経営手法の導入)、企業間の提携・集約によって企業の収益体制が強化されること(新産業体制の整備)、国のなかでより儲かる産業や企業の割合が増えること(産業構造の改善)などです。つまり企業の生産過程やサービス提供の仕方に変化がなくても、企業活動の成果である付加価値額が増えるような事態を実現できれば、やがて賃金などに回されて経済成長が実現することになります。
 そのほかインフラ整備や交通・通信環境の発展などによって企業活動の効率が上昇すること(経費の削減)、海外投資や対外貸付けによって受け取る収益金、配当金、利子などによってより高い収益率を得られること(企業環境の改善)なども「全要素生産性」による成長要因にカウントされるでしょう。
 今回の図で見ると、最近において日本経済の「全要素生産性」は恒常的に成長率を高める方向に働いていますが、さらにいっそうの増大が望まれます。日本の産業界は世界のトップクラスの技術水準にありながら、国内企業同士の競争がきびし過ぎるなどで新しい知恵や工夫を生かしにくいことなどがしばしば表明されます。グローバルな競争がきびしいなかで成長率を高めるために、今後の産業・企業のあり方として閑却できない視点でしょう。



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経済成長と求職・求人倍率

 現在の我が国では「日本は経済成長の段階は終わったのではないか」「これ以上の成長をめざすのは不可能である」「成長を目指すとよくない副作用を生むのではないか」などの言説を目にすることがあります。過日の朝日新聞紙上において記者であったか編集委員であったかが、そうした議論を堂々と展開しておりました。
 これらが若い人びとの意見かというと、そうではないようです。大学教育の現場で学生らから聞く意見はまったく正反対で「脱・成長指向」の政策は人気が悪いのです。環境政策、格差是正、企業や技術の動向監視などの政策に比べて、いつも劣後にあります。特定の事象に左右されているのかと思い、年ごとに学生諸君からアンケートを徴しますが、基調は一貫して変わりません。就職活動を直後に控える人生の節目のときに、低成長で機会が減殺されることは由々しい問題なのでしょう。
 成長率と就職環境とは、どういう関係があるのでしょうか。日本の経済成長率を左目盛に、求人倍率を右目盛に、両者を対比するグラフを作ると下図のとおりです。
 経済成長率はこれまでにも幾度も用いたのと同じで、GDP(国内総生産)の前年に対する増加・減少率(実質と名目)を示しました。求人倍率とは、求職者(仕事を探している人)1人に対して何件の求人数があるかを計算したものです。求人倍率1は、求職者数と求人数が同数であることを意味します。実際の職探し現場では当然ながら仕事の質や条件が問題になりますが、そのことは考慮に入れず数的な対比のみをおこなった値です。概して求人倍率が高ければ求職活動が楽ですし、低ければむつかしくなります。
 「大卒求人倍率」とは、民間組織である「㈱リクルートワークス研究所」が推計しているデータで、毎年3月に卒業予定の大学生・大学院生で就職を希望する者の数に対して、全国の民間企業からの求人総数が何倍あったかを示すものです。1987(昭和62)年以降の値が発表されています。
 さらに古いデータが得られるものとして「新規求人倍率」もグラフに加えました。全国のハローワークにおいて各月の新たな求職者1人に対して、新たな求人数が何件あったかを示すもので、厚生労働省が作成しています。景気の指標としてしばしば用いられる「有効求人倍率」は、求職数と求人数の双方に先月からの繰り越し分を加えたものですが、新規求人倍率はそれを加えませんので、ときどきの雇用情勢をより敏感に反映するといえます。新規の学卒者はふつうハローワークを通じて求職活動をしませんので、これらには含まれません。
 民間企業はときどきの経済状況を踏まえつつも人手が得られる現実的な可能性を踏まえて求人活動を行うでしょうから、求人倍率が数倍に達することはありません。したがって趨勢を見極めるのが簡単ではありませんが、グラフに見るとおり「大卒求人倍率」は成長率の低下にともなって明らかに低水準に移っています。「新規求人倍率」は成長基調が変化して、低成長に移ったときにガクンと値が低下するようです。双方ともに、低い水準が一定の期間続くと、求人倍率が一時的に盛り上がります。おそらく組織内において人材不足を感じる企業が増えて、補充を迫られるためでしょう。
成長と求人.JPG


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経済成長と失業率

 一人当たりの雇用報酬と並んで、国民生活に関わる重要な指標として失業があります。各人にとって雇用の機会を失うことは日々の生活にとって重大なことですが、時々の政権にとっても働く意欲のある人に雇用の場を提供できないことは大きな問題です。
そこで経済成長率と完全失業率とを対比するグラフを作ってみました。次のグラフです。
失業率.JPG
 我が国において成長率が高い時期には失業率も低かったのですが、成長率が低くなるにしたがい失業率が上昇していることが明らかです。日本の失業率は下のグラフにあるように国際的には低い水準にありますが、完全失業率4-5%という状況は看過できるものではないでしょう。日本の統計の定義において「完全失業者」とは、働く能力と意志があり、本人が求職活動をしているにもかかわらず、現在および過去の一定期間内に就業の機会が得られなかった者を指しています。つまり家事労働をしたり、働く意欲を失ったりしている人は含まれていませんから、満15歳以上の年齢人口のうち、学生・専業主婦・病弱者などを除いた労働力人口のうちで、20-25人に1人が就業できていないことになります。
 もっとも失業率が0%になることは現実問題として不可能と考えられています。転職などにともなって職場が変わる際に一時的に就業できない人が現れるのを避けることができないためで、これを「摩擦的失業」といいます。摩擦的失業率がどの程度あるのかについてはさまざまの議論がりますが、先の図にあるとおり日本の高度成長期においても失業率が1-2%ほどの水準で続いていましたから、この程度の失業が発生することはやむを得ないと考えるべきでしょう。グローバル化などによって経済変動が大きい時代には、構造的に摩擦的失業が増える可能性があります。
 経済成長率が高いとは、前年に比べて経済活動にともなう付加価値がより多く実現したことを意味します。具体的にいえば、既存の事業活動が前期に比べて伸長したとか、何らかの理由によってより高い付加価値率が実現したとか、新たな生産や雇用の場が生まれたとかなどの状況を指しています。このことから成長率が高い方が、雇用機会を増やし失業を減らすのに有利なことは間違いありません。
各国失業率.JPG

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経済成長率 名目値と実質値

 経済成長とは、1年間のGDP(国内総生産)が前年に対していくら増減したかを年率で示すものです。国内総生産とは、国内においてそれぞれの主体が経済活動に取り組んで実現した売上高からその主体が原材料や設備の取得などのために外部へ支払った金額を差し引いて残った部分です。すなわち付加価値額といわれるもので、各経済主体が、生み出した経済的価値を合計したものです。
 経済主体には、個人もあれば法人もありますから、個人事業主の所得のほか法人(企業など)所得もあります。法人によって獲得された所得は、従業員への給与のほか、株主への配当、減価償却、企業の内部留保などに回されます。したがって経済成長率の高低がただちに各個人の所得の増減に反映されるものではありません。ただし当然ながら、大きな関係を持っています。
 ところで前回に示したグラフは経済成長率の実質値です。実際の付加価値額の増減から、この間における物価変動による影響を除去したものです。前年と同じ経済活動をして同じ金額の売り上げを実現したとしても、その間にインフレがあって経済全体の物価が上昇していたとすれば、その影響を除去する必要があります。いっぽうデフレ下にあって経済全体で物価が下落している状況では、実質的にはもっと多額の経済価値が生み出されたはずであると考え、物価の下落率で割り戻します。このように物価変動による影響を除去して、前年に比べた経済価値の増減を計算したものが実質値です。
 ところが我々が日常的に手にする給与額は、前年との物価変動などが除去されていませんから名目値といいます。こちらの方が我々の生活実感に近いわけですから、日々の感覚としては名目値による経済成長率を考えることになります。
 経済成長率の名目値によるものと実質値によるものとを対比してグラフ化したのが下図のようになります。最近はデフレ傾向が続いていますから名目値の伸びが低くても実質値による伸びが高くなります。政府の発表などには、ふつう実質経済成長率を言うことが多いので、成長率の数字ほどには給与が増えていないと実感する人が多いでしょう。
 また経済成長率には、先に述べたように被雇用者の給与だけでなく企業の内部留保や配当などに回される部分を含み、個人事業主の所得も含みます。そこでサラリーマンなど何らかの組織に雇用されたうえで報酬を得ている人びとの給与の伸びを把握するには別途の集計が必要となります。
 「労働力調査」から得られる雇用者数のデータを用いて、雇用者一人あたりの報酬額(名目値)の前年に対する伸びを同じグラフのなかに記しました。最近、我が国ではこの伸び率のマイナスが続いていますから、雇用者の平均では前年より報酬額が減り続けていることになります。名目経済成長率がプラスの年であってもマイナスを示していますから、雇用されて働いている人びとの給与がきびしい環境のなかにあることが示されます。
名目・実質成長率など.JPG
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◆経済成長論◆

 現在の日本には経済成長に関して、さまざまの意見が溢れています。たとえば、つぎに掲げるようなものです。

・ どうして日本経済は成長しないのか。
・ 成長がなければ雇用の拡大も給与の上昇も見込めない。働く世代にとって不幸だから成長を目ざせ。
・ 税率を引き上げたところで、経済の拡大がなければ税収は増えない。
・ 財政再建には経済成長こそが重要である。
・ 経済成長に向けてもっと積極的な手立てを講ずべきではないか。
・ 成熟段階に達した先進国経済では、もはや経済成長はむつかしい。
・ 資源や環境の制約があるから、さらなる成長をめざすのは間違っている。
・ 成長の可能性がないのに、それを求めると社会にひずみを生ずるのではないか。
・ 先進国は、むしろ所得を引き下げる覚悟が必要である。

 これらの意見は明らかに相互に矛盾しています。そのいっぽうで直ちにはどれも間違った考えと感じられず、すべてが妥当なようにもみえます。この問題をどう解きほぐしていけばいいのでしょうか。日本において経済成長の問題をどう考えればいいかを整理していきます。
 手始めに最近時までの日本の実質成長率をつぎに掲げます。このグラフは総務省統計局のHPから容易に得られるものです。

日本の成長率.JPG

 ご丁寧にもこの資料には、過去の成長率の値を何年かずつの段階に分けて平均値を計算したものが記入されています。表中にあるように、1956-73年の平均成長率が9.1%、1974-90年が4.2%、1991-2010年が0.9%です。これによると、日本経済は、いわゆる高度成長期を経た以降はしだいに成長率が低下し、現在は1%前後になっていることが明らかです。
 バブルの崩壊を経験したあと、1990年代以降の日本経済は「失われた10年」という言葉がしばしば使われるように、成長率が振るわなくなっています。これについて主として海外メディアは「日本病」と呼んで反面教師とし「自国において、こうした状況に陥ってはならない」という警戒の声をあげました。
 ところが最近は「日本経済は1%程度の低成長でも経済が破たんしているわけでもない」「失業率が国際的に低いことなどからして、国民が大きな不幸を甘受しているとも思えない」「資源や環境の制約が迫るなかで先進国はむしろ低成長をこそ追求すべきではないか」などと、逆に評価する意見も出ています。


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三角縁神獣鏡

 『魏志倭人伝』において卑弥呼が魏から付与されたとされる「銅鏡百枚」の鏡が何であるか、前項との関連で触れておきます。大方の意見がそうであるように「三角縁神獣鏡(さんかくぶち・しんじゅうきょう)」と考えていいのではないでしょうか。三角縁神獣鏡(国立博物館).JPG鏡を取り巻く円盤状の縁の断面が山型に盛り上がり三角形になっていることから、その名があります。(写真は東京上野の国立歴史博物館に展示されているもの)
 邪馬台国から魏へ使節を派遣した最初の年は西暦239年で、それ以降、卑弥呼・台与の時代を通じて4回あったようです。三角縁神獣鏡が3世紀の古墳からは出土しないで、4世紀以降に築造された古墳から出土することと年代的にも合います。
 この鏡が中国からは一面も出土しないことや鏡の径が平均22センチと後漢時代の鏡に比べてサイズが大きいことなどから、日本で鋳造されたものとする意見もありますが「倭の神獣鏡好き」に合わせて、渡航してきた使節のために中国で特鋳されたと考えれば矛盾はありません。
 日本における三角縁神獣鏡の出土数は500面を超えますが、舶載鏡が累次の使節派遣の都度に与えられたと考え、中国鏡を模して国内で鋳造した倣製鏡も含まれると考えれば、出土数が多いことに不思議はありません。三角縁神獣鏡の府県別出土数のグラフが「邪馬台国の会」のHPにありますので、そのまま下図に掲げます。邪馬台国の会とは、安本美典氏を中心に東京で開かれている古代史愛好家の集まりです。(http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288)。
 このグラフを前項で示した画紋帯神獣鏡のそれと比較してみます。畿内からの出土数が多いことは双方に共通しますが、三角縁神獣鏡の西日本における出土数が、岡山県(吉備)、福岡県に多い反面、阿讃地域では瀬戸内海に面する古墳からに限られるので出土数が少ない。これは政権が畿内と中国との往来ルートに気を配ったことを推定させます。関東地方で群馬県の出土数が多いのは、当時、この地域に政治の中心があったのでしょう。邪馬台国の権威が確立したのちに、地方勢力を慰撫するために配布したと考えれば、納得的です。
 さらに三角縁神獣鏡は、畿内にある次の2つの古墳から一挙に多数が出土したという特色があります。
 京都市木津川市にある「椿井大塚山古墳」は全長175mの前方後円墳で、3世紀末に築造されたと推定されています。1953年の調査でここから32面の三角縁神獣鏡が出土し、当時において最高の枚数を記録しました。このほか画紋帯神獣鏡1面ほかも出土し、合わせて36面以上の鏡が埋納されていました。
 奈良県天理市にある「黒塚古墳」は全長130mの前方後円墳で、3世紀末ないし4世紀初頭に築造されたと推定されています。1998年の調査で、ここから33面の三角縁神獣鏡が出土し、埋納状況に特徴がありました。三角縁神獣鏡は棺の両側の棺外とみられる位置にあって、ほぼ半数ずつが並べられていました。これに対し画紋帯神獣鏡1面は棺内において遺体の中心とおぼしき場所に埋納されていました。2つの鏡の扱われ方から、三角縁神獣鏡より画紋帯神獣鏡の方が重視されていたことが明らかです。
 画紋帯神獣鏡が丁寧に埋納されていたのは、両古墳の被葬者が邪馬台国の共立に早い時期から参画した者であることを推定させます。いっぽう数が多い三角縁神獣鏡は、被葬者がこの鏡の配布に関わる人物であったことを窺わせます。3世紀の後半に成立したヤマト王権が基盤を固めるにしたがい、邪馬台国時代に行われた魏鏡の配布はしだいに政治的な意味を持たなくなったのでしょう。3世紀末ないし4世紀におけるそうした事態を反映するものではないでしょうか。
府県別三角縁神獣鏡分布 288-23.gif

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画紋帯神獣鏡

 前項では、邪馬台国政権の共立に阿讃地域の勢力が加わったことを示唆する情況証拠のひとつとして、古墳時代の初期の阿讃地域において前方後円墳の数が多いことを指摘しました。そのほかにも何か、当時の阿讃地域の力を示すものがないでしょうか。探していくと、古墳から出土する鏡において「画紋帯神獣鏡(がもんたい・しんじゅうきょう)」の数が多いことが浮かび上がります。画紋帯神獣鏡(国立博物館).JPG
 画紋帯神獣鏡とは、2世紀末から3世紀初めにかけて中国で造られ、後漢時代の終りころに流行したとされる青銅鏡です。鏡の周囲に画紋帯と呼ばれる絵画的な文様帯があり、内側には神仙思想を表現する神のほか、竜や虎などの霊獣が浮き彫りされています(写真東京上野・国立歴史博物館の展示資料によるものです)。
 中国では80面ほど出土していますが、日本では150面ほども出土しており、当時の日本人の「神獣鏡」好きを思わせます。これには中国製を模して日本国内で鋳造された倣製鏡も含まれているでしょう。奈良県桜井市にある「箸墓古墳」は皇室関係の陵墓として発掘が許されませんが、近傍にある「ホケノ山古墳」の調査によって画紋帯神獣鏡一面が出土しました。この事実は画紋帯神獣鏡と当時における我が国の最大権力であった邪馬台国との関係の深さを窺わせるでしょう。
 画紋帯神獣鏡の我が国における府県別出土数をグラフにしたものは図のとおりです(「邪馬台国の会」活動記録http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288.htmによります)。畿内とそれに近い奈良、京都、兵庫、三重、大阪で多いことは当然としても、それに次いで多いのは四国の香川と徳島です。香川県内では東部地域が中心で、徳島県内では北部地域ですので、両者をひとくくりにして「阿讃地区」と考えると、府県別では奈良、京都に次いで3番目に多い枚数が出土したことになります。九州では宮崎、熊本、福岡からが多いようです。
 前項において「邪馬台国は“築備播讃”などによる共立政権」とする説を紹介しましたが、それを裏付ける出土状況といえるでしょう。つまり邪馬台国政権を共立する際に、参画した地方勢力が同盟の証しとして画紋帯神獣鏡を分有したと考えられます。
 魏志倭人伝によると、卑弥呼が西暦239年に派遣した使節は魏から「銅鏡百枚」を下付されました。卑弥呼が女王の座についたのは200年前後と推定されますから、邪馬台国の共立に参画した有力者が同盟の証しとしたのは「銅鏡百枚」にあたる鏡よりも古い時代の鏡と考えるべきでしょう。画紋帯神獣鏡は、ちょうどそれに符合します。府県別画文帯神獣鏡分布 288-24.gif
 画紋帯神獣鏡は朝鮮半島に楽浪郡があった平壌あたりからも、数が多くはないが出土します。これらの事実から、考古学者の都出比呂志氏は『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書 p80)のなかで「卑弥呼が魏と交流する前の3世紀初めに、遼東半島の公孫氏から独占的に入手した画文帯神獣鏡を各地の首長に分配した」と書いています。けだし、穏当な説と考えるべきでしょう。


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邪馬台国を共立した阿讃

 我が国で最初に成立した統一政権である邪馬台国と東四国(阿波と讃岐、いまの徳島県と香川県)との間には密接な関係があったことを窺い知らせる事実をこれまでに整理してきました。まとめると次の通りです。

① 倭迹迹日百襲姫(『魏志倭人伝』にいう卑弥呼と考える)が幼い時期に畿内から讃岐(香川県)に来て、かなりの期間留まった事跡がある。
② 畿内の纒向地域(奈良県桜井市)にあり、初期の前方後円墳の代表であるホケノ山古墳の石室は「石囲い木槨」構造であるが、その原型が阿波と讃岐の古墳にある。
③ 日本書紀、古事記、古語拾遺などの歴史書には、畿内と阿波の人間関係について、密接的な人脈があったことが記されている。
④ 平安時代の『延喜式』に記されている式内社をみると、阿波の式内社には日本の建国に関与した神様を祀る神社が多いなど、他の地域にはない格別の様相がみられる。

 これらから畿内に成立した邪馬台国と東四国との間には、密接な関係があったことが推測されます。そこで、たとえば奈良県樫原考古学研究所の寺沢薫氏は『日本の歴史02 王権誕生』(講談社 p249)において次のように書きます。

 時まさに3世紀の初め、イト(伊都)倭国の権威が失墜するなか、・・・『倭国乱』と(魏志倭人伝に)書かれたこの八方塞がりの情況を打破すべく、『筑、備、播、讃』(後の筑紫、吉備、播磨、讃岐のこと)や出雲、近畿勢力のどこか一つの勢力ではない、これらの国々の合意のもとに、まったく新しい倭国として、その権力中枢が「ヤマト」に建設された。あたかも明治維新の新生明治政府が幕末の「薩、長、土、肥」権力のどこか一つでなく、まさに連合新政府として首都東京の町に打ち建てられたときのように。
 ただし(この政権は)世襲的ではなく、鉄をはじめとする先進的な文物と情報の共同入手機構、共通の利害が倭国形成の根本的な契機になった。畿内が主導権を持ったのは西日本と東日本を結ぶ要衝をしめ狗奴国とも密接であったからである

 つまり卑弥呼の邪馬台国は、当時の西日本の有力な地域であった「筑紫、吉備、播磨、讃岐」などによる共立政権であったというのです。この場合の「讃岐」には、史跡の状況から吉野川以北の阿波も含まれると解されるべきで、いわゆる「阿讃地域」と考えていいでしょう。
 全国的に古墳が早く出現するのは、北九州、出雲、畿内ですが、東四国もこれら先進地に劣らず3世紀のころから多くの古墳が築造されます。このようすは後に巨大な前方後円墳の築造がなされる瀬戸内対岸の吉備(岡山県)に先立つものでした。
 石野博信編「全国古墳編年集成」(雄山閣出版)によって、四国と吉備地方で築かれた古墳について、主たるものに限って掲げた古墳数を整理すると、次の表のようになります。

四国と吉備の古墳数.JPG


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邪馬台国は阿波にあった?

 徳島県(阿波)には古めかしく、他の地域では見つからない神社がたくさんあります。これをどう考えればいいのでしょうか。
 徳島県の郷土史家である大杉博氏は著書の『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』(たま出版)のなかで、これは邪馬台国が阿波にあったことの証左のひとつであると書きます。
 この本によると、記紀に記された日本の神話が展開したのは阿波を中心とした四国であったというのです。高天原も、天孫降臨の地も、天岩戸も、出雲も、葦原の中ツ国も、すべて阿波にあったとし、それぞれの場所が具体的にどこであったが明らかにされています。
 また日本書紀にいう饒速日命(にぎはやひのみこと)の畿内への天下りは、四国の剣山山地から河内の石切神社のあたりに天下ったのだといい、イワレヒコノミコト(神武)の東征は3世紀末ないし4世紀初頭のことで、それまでは阿波でたくさんの古墳が造られていたのが、その時期以降は突然に畿内で古墳が出現することになるとします。
 大杉博氏によると、邪馬台国は四国の山上にあり、魏志倭人伝にいう卑弥呼は日本神話における天照大神に当たります。彼女の死に際して造られた古墳が、すでに前出の項で取り上げた「天石門別(あまのいわとわけ)八倉比売神社」の背後にある前方後円形の墳墓です。海抜116mの高さにある柄鏡型をした前方後円形の墳墓で、その後円部と思われるところに青石で五角形に小口積した祭壇があります。周辺の山麓一帯には、陪塚を含め200あまりの古墳群もあります。
 天石門別八倉比売神社は、徳島市郊外の「阿波史跡公園」の傍らに鎮座し、もともとは「杉尾山」そのものをご神体としていました。日本最古の神社とされる奈良県の大神(おおみわ)神社が三輪山そのものをご神体とするのと同じように、古い形式の神社です。大神神社は、いまも三輪山をご神体としますので「拝殿はあるが本殿がない」ことで知られます。(大神神社は、神仏分離が行われた明治期に本殿を造ろうと計画しましたが、当時の教部省が反対したのでいまも古い神社形式が残されたままです。いっぽう阿波の天石門別八倉比売神社は、江戸時代に神陵の一部を削って小さな本殿が造られています)

 閑話休題、このような古式に富んだ尋常ではない阿波の神社事情をどう考えればいいのでしょうか。大杉博氏など邪馬台国阿波派の皆さんは「これすなわち邪馬台国が阿波にあったことの証左である」と主張しますが、これを事実と考えていいものでしょうか。
 邪馬台国がどこにあったかに関連しては、これまで我が国の数々の先学が積み重ねてきた考古学や文献史学の成果があります。これらをひと通り聞いたあとでは、阿波説はいかにも突拍子にみえて、ただちには賛意を表せそうにありません。
 それでは阿波の神社事情の特異性が何によるのでしょうか。その答えは、古代にこの地に移ってきた忌部一族の所業と考えればいいのではないでしょうか。これまでに示してきた他国には例を見ない神社事情の多くは、畿内から移ってきた忌部氏の故地である、いまの吉野川市とそれを取り巻く周辺にあります。なかには元来が忌部神社の摂社として創始されたと伝えられるものもあります。
 現在、一帯にある歴史遺産をまとめて「忌部の里」として売出そうという努力が地元の人びとによって重ねられています。遠いむかしにもこの地に居住する忌部氏につながる人びとが、何らかの契機において地域づくりに取り組む一環として、たくさんの神社などを造営したのではないでしょうか。
 忌部氏はもともと中臣氏と同じく皇室の祭祀を担当した一族でした。しかし中臣氏が台頭するに及んでしだいに往時の威勢を失ったとされます。忌部氏の事跡が忘れられようとすることに抗して、天地開闢から天平年間(729年-749年)の間における忌部氏の事績を、斎部(いんべ)広成がまとめて平安時代に『古語拾遺』を著しまし、それを天皇に献上しました。
 忌部氏は天照大神が天岩戸隠れをした際に、岩戸から御出座を願う際に活躍した天太玉命に連なる子孫とされます。記紀(古事記と日本書紀)に比較して『古語拾遺』には天太玉命ら忌部氏の祖神の活躍がより豊富に記されています。その情況を立体的に阿波の地で再現しようとして、阿波にたくさんの関連神社を作り、さまざまの儀式を行ったのではないでしょうか。
 いわば自分らの祖先が行ったことの追体験とデモンストレーションです。現代において文化遺産のミニチュアワールドを造ることが世界の各地で流行しているのと同じ発想ではないでしょうか。その努力の痕跡が、いま阿波に残っているのではと考えられます。



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阿波の式内社の特色

 阿波の式内社をより詳細に観察してみましょう。他の諸国の式内社と比べて、いくつかの特色が浮かびあがります。といっても畿内には圧倒的にたくさんの式内社がありますから、畿内との比較はひとまずおいての話です。
 一つ目の特色は、日本の国造りの根幹に関わったとされる神を祀る神社が多いことです。
 伊射奈美(イザナミ)神社が、現在の徳島県美馬市穴吹町にあります。イザナギ・イザナミの両神が国生み、神生みをしたことが日本神話の核心ですから、これをご祭神とする神社は国内に数多いでしょう。しかし「イザナミ」をストレートに神社名に冠した神社は国内に見当たらないようです。いっぽうイザナギ神社は摂津国(大阪府吹田市)と淡路国(兵庫県淡路島)にあります。
 事代主(コトシロヌシ)神社が、徳島市通町と阿波市市場町の県内2か所にあります。ご祭神の事代主は大物主の子とされます。この名前の神社は、徳島県と長崎県にしかないという、珍しい存在です。
 大御和(オオミワ)神社が、徳島市国府町にあります。奈良県(大和)にある大神神社は、これと同音にオオミワと読み、背後に聳える三輪山をご神体とします。この大神神社がヤマト王権の守り神であることを畏(かしこ)んで、美和、弥和、三和などの文字を用いてミワ神社と読ませる神社が日本各地にあります。ただし「御和」と書くのは阿波にあるだけのようです。ご祭神は日本書紀で大己貴神(おおあなむちのみこと)とされ、古事記で大国主命とされる方ですから同じ方なのでしょう。
 倭大国玉(ヤマトオオクニタマ)神・大国敷(オオクニシキ)神社が、美馬市脇町にあります。大国玉(おおくにたま)神は倭国の産土神ですが、これを2度も繰り返す大仰な名前を冠された神社は、阿波以外では見当たりません。

 二つ目の特色は「欠史8代」の天皇に関わる登場人物をご祭神とする神社があることです。
 記紀(古事記と日本書紀)において初代の神武天皇と第10代の崇神天皇の間に挟まれた8人の天皇は事績に関する記述がほとんどないことから実在を疑う説が多く、これらの天皇に関わる人物を祀る式内社を見つけることもむつかしいのですが、阿波にはいくつかが見当たります。
 御間都比古(ミマツヒコ)神社が、名東郡佐那河内村にあります。ご祭神は御間都比古色止命(みまつひこ いろとのみこと)で、日本書紀では観松彦香稲(みまつひこ あれひめのみこと)と書かれている第5代考昭天皇に当たる方です。
 天佐自能和氣(アマノサシノワケ)神社が、徳島市不動東町にあります。日本書紀では倭国香媛(ヤマトカヒメ、またの名をハヘイロネ)と呼ばれる方で、第7代孝霊天皇の妃であり、かつ倭迹迹日百襲姫の母に当たる方です。神社には、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと=男性の皇祖神)と神皇産霊尊(かみむすひのみこと=女性の皇祖神)が合祀されています。
 伊加加志(イカカシ)神社が、吉野川市川島町にあります。ご祭神は伊加賀色許売命(いかがしこめのみこと)で、日本書紀では伊香色謎命と書かれる方です。第9代開化天皇の后となって、第10代崇神天皇の母となられる方です。もう一柱のご祭神は伊加賀色許雄命(いかがしおのみこと)といい、神社の案内記によれば伊加賀色許売命の弟とされます。

 三つ目の特色は、以上のほかにも記紀神話に登場する方をご祭神とし、神様の名前そのままを冠した神社が多いことです。ご祭神の名前を同音の漢字に当てて表記しますから、現代人は読むのに苦労します。神社名といえば、他国では神社の所在地である郷や里の名前を冠して田村神社とか、櫛梨神社とかとするケースが多いように思えるので、阿波において際立った特色と見えます。いくつかの例を挙げると次のとおりです。
 建布都(タケフ)神社が、阿波市市場町にあります。建布都神は、大国主神から国譲りを受けるときに功のあった建御雷之男神(たけみかづちのおかみ)の別名とされます。
 彌都波能賣(ミツハノメ)神社が、美馬市脇町にあります。神話に登場する水の神様で、ほかでは大和(奈良県田原本町金剛寺)に同名の神社があるようです。
 波爾移麻比彌(ハニヤマヒミ)神社が、美馬市脇町にあります。神話に登場する波爾移麻比彌は、土の神様です。
 多祁御奈刀禰(タケミナトミ)神社が、名西郡石井町にあります。多祁御奈刀禰は、大己貴神の子どもとされる方です。
 天石門別豊玉比賣(アマノイワトワケ・トヨタマヒメ)神社と和多都美豊玉比賣(ワタツミ・トヨタマヒメ)神社として延喜式に掲げられた2社は、いま徳島市不動西町にある雨降神社がそれと比定されています。海神の娘であり山幸彦の妃となった豊玉姫をご祭神とし、いま降雨の神様とされます。
 天水沼間比古(アメノミヌマヒコ)神・天水塞比賣(アメノミセキヒメ)神社として延喜式に掲げられた神社は、いま吉野川市鴨島町にある敷島神社に合祀されたと考えられています。ご祭神の天水沼間比古神は祈雨の神様として、また天水塞比売神は洪水を防ぐ神様として、記紀神話に登場する方です。
 秘羽目(ヒワメノ)神・足濱目門比賣(スハマドヒメ)神社として延喜式に掲げられた神社は、いま吉野川市鴨島町にある杉尾神社がそれと比定されています。秘羽目神と足濱目門比賣神は、ともに水防の神ですが、いつの頃かご祭神が取り違えられ、前項の天水沼間比古神と天水塞比売神になったともいわれます。
 鹿江比賣(カエヒメ)神社として延喜式に掲げられた神社は、いま板野郡上坂町にある葦稲葉神社に合祀されたとされます。鹿江比賣は草野姫命とも呼ばれる「野」の神様です。この名前の神社は、徳島県の一の宮である大麻比古神社の境内末社にもあります。
 天村雲(アメノムラクモノ)神・伊自波夜比賣(イジハヤヒメ)神社として延喜式に掲げられた神社は、いま吉野川市山川町にある天村雲神社がそれと比定されています。天村雲神は一説によればスサノオノミコトの子として神話に登場する方です。その妃が伊自波夜比賣です。

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阿波の神社

 歴史書に「阿波」の人脈に連なる人びとが神様として登場することは、阿波国の史跡にもヤマト王権の成立に関わったことを反映する何らかの痕跡が残っているのではないでしょうか。

  まずは阿波国の神社のようすを観察してみましょう。神社数を総覧すれば次の通りです。
  平安時代の法令である「延喜式」の神名帳には「式内社」と呼ばれる神社が列挙されています。それが全国に3122座あります(「座」とは神社に祀られた祭神の数で数えたもの)。そのなかで格式が高い神社を大社といい全国に492座あります。それ以外は小社で2630座あります。
  式内社の数を地域別にみると、もちろん畿内に圧倒的に多いのですが、四国の状況を対岸の吉備地方を含めて国別に示すと次表のようになります。国ごとの比較では、阿波国の式内社数の全国比が高いことが目立ちます。

神社数.JPG   阿波国で大社が3座ありますが、いずれもが前項で指摘した阿波人の祖とされる「天日鷲神」を祀る神社です。   「忌部神社」は県都である徳島市から西へ吉野川を少しだけさかのぼった吉野川市山川町にあります。かつては西国随一の格式の高い大社とされ「四国一ノ宮」と称せられたこともあったそうです。忌部神社の南側には忌部山古墳群が広がり、古墳が5基あるなかに直径が10m前後に達するものもあります。神社は皇紀2年に創建されたと伝わりますから、西暦に換算すると紀元前659年となりますが、ヤマト朝廷の成立と同時に設けられたと主張するのでしょう。   「大麻比古神社」は徳島県北東部にある鳴門市にあり、現在「徳島県一の宮」になっています。初詣などにおいて、県下ではもっとも参拝者が多く、賑わう神社です。   三つ目のもう一つが「天石門別八倉比売(あまのいわとわけ・やくらひめ)神社」で、徳島市の西南部の国府町にあります。ご祭神は天日鷲神とともに「大日孁女命(おおひるめのみこと)」が祀られています。天照大神の別名ないし古名とされる神様です。「孁」は“る”と読み、巫女を意味するといいます。   場所は鮎喰(あくい)川に沿った地域で、弥生時代の遺跡がたくさん発掘されているところです(徳島県埋蔵文化センターに陳列されている弥生時代後期の豊富な土器の写真を後に掲げておきます)。   神社は気延山の東麓にあり、一帯を徳島市が「阿波史跡公園」として整備しました。公園から西に向かって山中へ続く石段を登ったところに神社が鎮座します。もともとは本殿がなく、杉尾山という小山そのものをご神体にする古い神社形式が採られていました。神社の背後をさらに100mほど登って杉尾山の頂上部にいたると、前方後円形をしています。その円丘のうえに5角形の石積みが残っています。   「邪馬台国の所在地は我が地域にあった」とする論が全国各地にありますが「邪馬台国が阿波にあった」と唱える人びとは、この石積みが卑弥呼(=天照大神)の墓であると主張します。近辺には天岩戸であったと指摘する場所もあって、念の入った舞台装置がそろっています。 阿波 弥生土器.JPG   天石門別八倉比売神社の古文書には天照大神の葬儀に関する詳細な記録があり、執行に際して登場する神々の名前が記されているといいます。また安永2年(1773)に書かれた別の古文書には「気延山々頂より移遷し、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」との記述がありますから、文書通りに計算すると、紀元前332年に現在のところに鎮座したとなります。

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阿波の人びとの祖神

 ヤマト王権の成立に際して、古墳などの考古学資料から阿波国が相応の貢献をしたことが窺えるとすれば、文献資料などにも何らかの痕跡が残っているのではないでしょうか。
 まず『日本書紀』を調べてみます。この歴史書の「神代上 第七段」は天照大神が天岩戸隠れをするという有名なシーンです。この段の「第三の一書」つまり“一書にいわく”として3番目の異説を取り上げた箇所で、阿波の人びとの「祖」とされる「天日鷲神(あめのひわしのみこと)」が登場します。
 場面は、スサノオノミコトのご乱行に怒って、天照大神が天岩戸に隠れて世の中が真っ暗闇になったところです。神々は困って雨鈿命(あめのうずめのみとこ)が天岩戸の前で賑やかに踊るという場面を作り出しますが、その折に天香山からサカキの木を取り寄せて御幣を作ります。
 サカキの上枝には鏡造りの遠祖が作った八咫(やた)の鏡をとりかけ、中枝には玉造の遠祖が作ったの曲玉(まがたま)をとりかけ、そして「下枝には阿波の国忌部の遠祖・天日鷲が作った木綿(ゆふ)」をとりかけたとあります。
 「八咫(やた)の鏡」とは、8尺もある大きな鏡でしょう。「曲玉」とは勾玉とも書かれる大きなメノウです。そして「木綿」とは、楮(こうぞ)などから作る白く美しい繊維で、神に奉る幣帛に用いられました。楮の皮をはいで繊維を蒸し、水に浸して晒し、さらに細かく裂いて糸状にしたものです。楮は、森林に恵まれた阿波の産物でした。

 『古語拾遺』にも阿波が登場します。この書物は斎部(いんべ)広成という人が、天地開闢から天平年間(729年-749年)にいたる間の忌部(斎部とも)氏に関わる伝承をまとめたものです。古来、ヤマト王権の祭祀を司ってきた忌部氏が、同じ立場にあった中臣氏が台頭することに危機感を覚えて、それまでの忌部氏の事績をまとめたとされる書物です。天皇の求めに応じて、平安時代の807年に奏上したとされます。
 その第17節に、次の記述があります。

 「天日鷲の命が孫、木綿また麻また織布を作る。よって天富命(あまのとみのみこと)をして、日鷲の命が孫を率いて阿波の国に遣わして、穀(カジ)・麻の種を植えしむ。その裔、いま彼の国にあり。大嘗の年に当たりて、木綿、麻布、種々の物をたてまつる。このゆえに郡の名を麻殖(まお)とする由縁なり」

 『古語拾遺を読む』(中村幸弘ほか著、右文書院)に記された解説にもとづいて、文章を現代風の文章にすると次のようになります。

 「天日鷲神の孫が、木綿・麻・織布を作っている。そこで天富命に命じて天日鷲神の孫を引き連れて阿波に派遣し、穀や麻の種を植えさせた。その末裔が、いまもその国にいる。大嘗(だいじょう)祭の年に当たって木綿、麻布など種々の物を献上する。それゆえ阿波には麻殖という郡名がある」

 「天富命」は、日本書紀や古事記には登場しませんが、忌部氏の祖である天玉命(あまのふとだまのみこと)の孫とされる方です。忌部氏の系譜をたどると「天玉命→〇→天富命→〇→天日鷲神→〇→阿波忌部氏」という風につながることとなります。
 「穀(カジ)」とは、クワ科の落葉高木でカジノキと呼ばれます。かつてはこの木の皮の繊維から木綿、紙、綱、縄などを作りました。
 「大嘗(だいじょう)」とは、天皇が新たに即位したとき、新天皇が最初に行う新嘗祭で、神と天皇(人)とが、収穫後の新米をともに食する祭祀です。
 「麻殖(まお)」の郡名は、いまも徳島県にあります。

 日本書紀、古事記、古語拾遺などは、書かれた当時に伝わっていた逸話や神話をまとめたものです。登場人物が神々に仮託されていたり、時代が前後して記述されたり、書かれたときに有力な人物や氏族にとって都合がいいように脚色されていたりされているとは思われますが、現実に起こったことを比喩的に伝えることが多いでしょう。これらのなかに阿波に関する記述が現われるということは、ヤマト王権の成立に際して現在の徳島県が一定の役割を果したことを反映しているでしょう。
 畿内から南へと古代の道の「南海道」をたどって四国を目指すと、淡路(=アワへの路)を過ぎれば「そこは阿波」という近きにあります。

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石塚山2号墳・三島古墳

 ホケノ山古墳と萩原墳丘墓に現れた「石囲い木槨」の、その先の淵源を辿ってみましょう。徳島教育委員会の菅原康夫氏は、同じ阿讃地区で讃岐にある「石塚山2号墳」の埋葬施設の構造に着目します。石塚 全体構図.JPG
 香川県丸亀市綾歌町にある「石塚山古墳群」のなかでもっとも古いとされる古墳です。丸亀市へ合併される以前の綾歌町の時代に、町の教育委員会が発掘調査を行い、1993年付で『石塚山古墳群』と題する報告書(以下「報告書」という)を発表しています。
 そのなかから興味深い記述を抜き出します。

 石塚山古墳群の全体は、図のようにいくつかの墳墓から構成されていました。ただし開発のために大部分が失われ、いまは古墳の一部が残るだけで、いまは下の写真のような立派な石碑が立っています。そのなかで規模がもっとも大きいのが石塚山2号墳です。墳形は第2次世界大戦前に鉄道敷設が行われたときに一部が失われ判然としませんが「円墳」と推定されており、円丘径は25mに達します。
 報告書では、石塚山2号墳の第1主体部について埋葬施設(石室)の詳細な調査を行い、造られる過程を図示したうえで、完成されたときの姿を図のように想定しています。石塚 石室.JPG 
 塊石を積み重ねて墓壙(石室)を形成した後、中央に置かれる木棺と石壁の間を板石で埋めるという入念な作業を行ったようです。完成した埋葬施設を報告書では「石垣状の石積み墓壙」と呼んでいますが、専門家の間では「石囲い石槨」という言葉が流布しています。
 このように注意深く強固な構造を採用した理由について、報告書では「積石塚では主体部や墳丘の石積みの崩壊がつねにつきまとい、その防止策が最大の関心事であったことが推測される」「石塚山2号墳の例は、阿波・讃岐地方を中心とする積石塚文化圏からの影響をもとに成立したものとみなすことができよう」(p64)と説明しています。
 このほか石塚山2号墳と萩原1号墳について、次のような類似性を指摘しています。「供献土器群は下川津B類土器が中心をしめ、器種構成にも大きな隔たりを感じさせない。・・・竪穴式石室を内包する石積み墓壙も同様の手法で構築され、さらに石室上面に敷設された白色円礫群も共通する。使用された木棺が箱形木棺と推定される点も同様である」(p69)。下川津B類とは、讃岐における弥生土器の編年作業で使われる用語です。石塚山古墳.JPG なお考古学者の石野博信氏は『邪馬台国と古墳』(学生社)のなかで、石塚山2号墳についても「木槨は確認されていないが可能性は考えられる」(p246)と書いています。

 香川県埋蔵文化財センターの信里芳紀氏は、香川県内にはもうひとつ石塚山2号墳とよく似た埋葬施設を持つものがあり、それが綾川町東分にある「三島古墳」と指摘します。第1主体部の埋葬施設が石槨ないし木槨であることや同じ時期に築造されたことで共通しており、ともに県内最古級の古墳になります。墳形は前方後円形で、後円径が21mで全長は30.7mに達するかなり大型の古墳です。
 綾川町に合併される以前の綾上町時代に、町の教育委員会によって発掘調査が行われ、平成17年付で『三島古墳』と題する報告書が作成されています。第1主体部の埋葬施設は、3.0×2.1mの石積み墓壙のなかに、幅が0.6-0.7mの礫敷遺構が見つかりましたので、墓壙のなかに石槨ないし木槨が設けられ、そのなかに木棺が置かれていたと推測されます。石塚山2号墳と異なるのは、槨の蓋の役割をしたと思われる白色円礫群が見当たらなかったので、木蓋が使われていたと推定しています。
 採石・採土事業が進んで古墳間近に迫っておりましたので、いまは町当局がこの場所を買い上げ、三島古墳は保存されています。現況は下の写真のとおりです。

 讃岐や阿波における出現期古墳の埋葬施設に現れた「木槨」や「石槨」が大和のホケノ山古墳に引き継がれた可能性を指摘してきました。それでは逆に時代をさかのぼって、その淵源をどこへたどることができるのでしょう。
 石野博信氏は前掲書のなかで「4世紀前半の韓国釜山市の福泉洞38号墳に丸太か角材の横積み木槨(内法幅2.5×4m)の例があり、釜山市福泉洞博物館で復元されている。・・・このほか韓国南部には、蔚山下岱墳墓群や釜山市大成洞墳墓群にも、丸太・角材横積み木槨墓がある」(p250)と指摘しています。これらから阿波と讃岐で瀬戸内海の沿岸に居住する海洋民が、朝鮮半島との航海のなかで、情報交換を行ったと推測しています。
 朝鮮半島の福泉洞38号墳が4世紀前半に築造されたとすれば、2世紀か3世紀前半に築造された阿讃地域の石塚山2号墳、三島古墳、萩原墳丘墓のほうが時代的には、より古いことになります。ただし「大成洞ではスキタイ系青銅バケツが共伴していて、木槨が中国東北部からシベリア南部につながる可能性を示唆している」(前掲書 p251)と石野博信氏は説明しています。三島古墳.JPG
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ホケノ山古墳と四国・阿波

 「ホケノ山古墳」は奈良県の纒向地域にあって、ヤマト王権(邪馬台国はその原初形態と考える)誕生との関わりのなかで築造された前方後円墳です。周辺には箸墓古墳をはじめとして大王墓といわれる巨大古墳がいくつかありますが、いずれも宮内庁が管轄する陵墓として発掘を許されません。したがってヤマト王権の素性やその基盤を考古学的に探るには、現在のところホケノ山古墳のようすから推し量るよりありません。
 前回では、ホケノ山古墳とその前夜における西日本各地の墳丘墓との対比を一覧しました。この表によってホケノ山古墳の諸要素が、それ以前に築造された弥生終末期の墳墓のどの部分を受け継いでいるかを整理すると、次のようになります。

・ 墳形の前方後円形については、各地にたくさんの先例がある。ただし箸墓古墳に採用され、その後に定形化されるバチ型前方後円墳の先例はない
・ 埋葬施設に「槨」を設けることについて、木槨、石槨などについていくつかの先例がある。ただし「石囲い木槨」については、阿波の萩原墳丘墓の先例が際立っている
・ 埋葬施設に水銀朱を使うことについて、阿波を含めていくつかの先例がある。(当時の阿波は有力な水銀朱の産地でもあった)
・ 古墳の外形に段築や葺石を設けることについては、先例が見当たらない。ただし葺石については、阿讃地区の積石塚が先例といえるかもしれない
・ その後、古墳の頂上などに特殊器台や特殊壺を並べることが盛んになるが、吉備(岡山県)に先例がある
・ ホケノ山古墳は、それまで各地で築造されていた墳墓と比べて、格段に規模が大きい

 これらからホケノ山古墳が代表する纒向地域の前方後円墳は、各地の墳墓の諸要素を取り入れつつ巨大化したものと考えることができます。さらに王権が強大かつ確固たるものとなるにしたがい、畿内の前方後円墳はますます巨大化し、権力の大きさを「示威し、見せる」性格を強めていったと考えられ、段築、葺石、特殊器台などは、古墳の外観を大きくかつ派手やかに見せる効果があるでしょう。
 いっぽう古墳の埋葬施設は、被葬者の身近にあって長く寄り添うものであり、外部からは見えない箇所です。したがってそれまでの集団の慣習や首長の好みにしたがって選択されるでしょうから、古墳形式において、もっとも保守的に維持される要素と考えられます。

 このことから埋葬施設が阿波の萩原弥生墓に類似していることが、大いに注目されます。これからいかなる帰結を導くべきでしょうか。
 ひとつの考えとして、ヤマト王権のなかに阿波につながる有力な人物がいたとする考えが思い浮かびます。ある人は「阿波の建築集団がヤマトに来てホケノ山古墳を築いたのであろう」と簡単に片づけますが、単に労働奉仕や施設設計の便宜のために阿波の力を借りたとは考えにくい。阿波の建築集団が従事したとすれば、被葬者に阿波につながる人脈があったから、と考えるのが自然でしょう。
 この点について、岡山大学の松木武彦氏は著書の『古墳とは何か』(角川選書)のなかで、新たな視点を披歴します。纒向地域に相次いで定形型の巨大前方後円墳が築造されたことについて、各地の「ひときわ有力な長たちは、纒向を本拠とする経済的な活動を前提に、そこを舞台としたほかの長との政治的な関係を演出するために、三輪山のふもとに広がるオオヤマトの地に古墳を並べた」とします。
 つまり西日本の各地で台頭してきた地域を代表する豪族たちは、大和に政権を共立し、そこに参画していることを演出するため、首長が亡くなった際の古墳の築造場所を、彼らの本拠地ではなく大和の三輪山のふもとに選んだ、とかんがえるわけです。その底流には、彼らの本拠地とヤマト王権との間に何らかの人的・経済的な結びつきがあったに違いありません。
 阿波の場合であれば、水銀朱、麻、楮などの生産力を有していたことが共立政権の経済力の源泉になった可能性があります。あるいは阿讃地域全体を考えると、朝鮮半島や大陸との交流における航海術をこの地の海洋民が有していたとも考えられます。これらがヤマト王権の礎のひとつとなり、松木武彦氏によれば、その事実を誇示するため首長の死に際して、阿波の人びとが纒向に出かけて行って古墳を築造したというのです。
 どのケースであっても、纒向で誕生したヤマト王権を支える力のなかに、四国の経済力、技術力、人脈などが生きていたことになります。
 このほか徳島教育委員会の菅原康夫氏は、ホケノ山の箱型木棺に供献されていた土器が伊予か讃岐かで作られたらしい大壷であること、大阪平野における前・中期古墳のなかに阿波の吉野川流域で産する結晶片岩を使用した古墳があること(紫金山、将軍山、闘鶏(ツゲノ)山、元稲荷、牧野車塚、鍋塚など)、讃岐の安山岩を使用した古墳があること(玉手山、松岳山など)、石棺に讃岐の火山(ひやま)石で作られたものがあることなどを指摘します。
 これらの事実は、ヤマト王権が阿波をはじめとする四国との深い関わりのなかで成立したことを強く推測させます。
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古墳時代前夜

 ホケノ山古墳の先例を四国の阿讃地区にのみ求めるのはフェアではないでしょう。そこでホケノ山に先立つ時代、つまり古墳時代前夜において西日本で築造された主要な古墳のようすを、ホケノ山古墳と対比しつつ考えてみましょう。弥生時代の終末期における墳墓ですから、厳密な言葉遣いをすると「弥生墳墓」ということになります。
 この時期に築造された古墳はおびただしい数にのぼりますから、ホケノ山古墳の先例ないし関わりを考えるという意味で「前方後円形」の墳墓を中心に取り上げます。前方後円形とは、前方後円墳の祖形とされるもので、円墳に小さな方形の突出部(突起)がついたものや柄鏡の取っ手がついたような墳墓をいいます。また「双方中円墳」というのは円墳の両側に小さな方形の突起がついたもので、やはり前方後円墳の原型のひとつとされるものです。「方形周溝墓」とは、埋葬部の周りを方形(四角形)の溝で囲うことによって墓域を形成するもので、弥生時代には一般的な墳墓の形式でした。盛土をする(墳丘を形成する)としても、後世の古墳のようにうず高くはありませんでした。
 また「積石塚」とあるのは、古墳時代に一般的な「盛土墳」ではなく、墳丘の全体を丸石や川原石で覆うものです。弥生時代の阿讃地域において相当数の事例が見られるもので、香川県高松市にある石清尾山古墳群が多くの積石塚墳墓を擁していることで知られます。阿讃地域以外では長野県、岐阜県の朝鮮系の人びとが定住した地域に見られますので、起源が朝鮮半島にあるのではないかと考えられています。

 まずはホケノ山古墳の諸元を示します。

ホケノ山古墳
 所在地と墳形: 奈良県桜井市  帆立貝式前方後円墳(後円径60m,突出部20m,全長80m)
 埋葬施設: 墓壙6.5×2.5m)  石囲い木槨,舟形木棺(長さ5m)  水銀朱
 埋納品: 画文帯神獣鏡,内行花文鏡(破片)  壺,大刀,鉄剣,鉄製農具,鉄鏃,銅鏃
 外形の特徴および築造時期: 葺石・段築あり  3世紀

 これに対比するため、ホケノ山古墳の先例と考えうる阿讃地域以外における西日本の古墳時代前夜の主要墳墓のようすを示すと、以下の通りです。

楯築(たてつき)古墳
 所在地と墳形: 岡山倉敷市  双方中円墳(円丘径50m,両側に突出部,全長72m)
 埋葬施設: 竪穴式石室、木槨,木棺  水銀朱
 埋納品: 鉄剣,ガラス玉,管玉
 外形上の特徴および築造時期: 特殊器台,特殊壺  2世紀末
西谷3号墓
 所在地と墳形: 島根県出雲市  四隅突出型方形周溝墓(最長部50m)
 埋葬施設: 竪穴式石室、木槨,木棺、水銀朱
 埋納品: 碧玉製管玉,ガラス玉、ガラス製勾玉,玉,鉄剣
 築造時期: 2世紀末~3世紀
平原(ひらばる)1号墓
 所在地と墳形:  福岡県糸島市   方形周溝墓(全長10m)
 埋葬施設: 竪穴式石室、墓壙 3.2m×4.6m、木槨、割竹形木棺   水銀朱
 埋納品: 方格規矩四神鏡など40面、勾玉・管玉など多数,耳飾り,素環頭太刀など
 築造時期: 3世紀前半
西条52号墳
 所在地と墳形: 兵庫県加古川市    前方後円形(後円径12m 突出部6m)
 埋葬施設: 竪穴式で割石をコの字型に作った石室 3.7m×2m,木棺  
 埋納品: 舶載内行花文鏡(後漢)  鉄剣,壺,高坏形土器
 築造時期: 3世紀前半
宮山古墳       
 所在地と墳形: 岡山県総社市  前方後円形(後円径23m、短い突出部、全長38m)
 埋葬施設: 円礫・角礫による2.7mの竪穴式石室,箱型木棺  赤色顔料  
 埋納品: 舶載飛禽鏡(楽浪郡?)  鉄刀,鉄剣,鉄,鏃,銅鏃,ガラス製小玉
 外形上の特徴および築造時期: 10数個の特殊器台,特殊壺  3世紀前中葉          
園部黒田古墳
 所在地と墳形: 京都府南丹市  バチ型の前方後円形(後円部楕円形30m,突出部20m,全長52m)
 埋葬施設: 墓壙 7×11m,拳大の自然礫による石床,木槨?,木棺  
 埋納品: 双頭龍文鏡(後漢) 碧玉製管玉,鉄鏃,塗漆製品,壺型土器
 築造時期: 丘陵の先端に築造   3世紀中葉
綾部山39号墳
 所在地と墳形: 兵庫県たつの市   前方後円形か?(円丘径10m)
 埋葬施設: 川原石の墓壙 4.6×3.5m,板石の槨(石囲い石槨),箱型木棺  
 埋納品: 画文帯神獣鏡(破片)  砥石,管玉,ヤリガンナ
 築造時期: 3世紀

 次いでは阿讃地域においてホケノ山古墳の先例と考えうる古墳時代前夜における主要墳墓です。

石塚山2号墳
 所在地と墳形: 香川県丸亀市 円墳か?(円丘径25m)
 埋葬施設: 塊石の墓壙 3.4×2.3m, 板石の槨(石囲い石槨),箱型木棺  
 埋納品: 鉄剣,土器片(高坏,壺)
 築造時期: 萩原1号墳と類似性
萩原2号墓
 所在地と墳形: 徳島県鳴門市    前方後円形(後円径20m、突出部5.2m)  積石塚
 埋葬施設: 竪穴式石室、石囲い木槨,木棺   水銀朱  
 埋納品: 内行花文鏡(破片)  埴輪片,土器片
 築造時期: 萩原1号墓より古い ,
萩原1号墓
 所在地と墳形: 徳島県鳴門市  前方後円形(後円径18m、突出部8.5m) 積石塚
 埋葬施設: 竪穴式石室 4×1.25m,石囲い木槨,壺棺  水銀朱  
 埋納品: 画文帯神獣鏡  土器、管玉、鉄器片
 築造時期: 3世紀前中葉 ,
西山谷2号墓
 所在地と墳形: 徳島県鳴門市  円墳(長軸20m、短軸18m)
 埋葬施設: 結晶片岩の板石を積む石室 4.7×1.1m,割竹形木棺  水銀朱  
 埋納品: 斜縁獣帯鏡 銅鏡,鉄剣,鉄鏃,ヤリガンナ,壺・甕の破片
 築造時期: 3世紀中葉
鶴尾神社4号墳
 所在地と墳形: 香川県高松市 バチ状の前方後円形(後円径18.7m、全長40m)  積石塚
 埋葬施設: 割石小積みの石室 4.7m×1.23m,木棺  
 埋納品: 方格規矩四神鏡 土器片(壺)
 築造時期: 3世紀末

各墳墓の諸元については、それぞれのホームページのほか、次の文献を参照しました。
 「日本古墳大辞典」大塚初重他編 東京出版 平成元年9月
 「続、日本古墳大辞典」大塚初重他編 東京堂出版 2002.9
 「日本古代遺跡事典」大塚初重他編 吉川弘文館 平成7年3月
 「萩原墳墓群」菅原康男編 徳島県教育委員会 1983
 「石塚山古墳群」綾歌町教育委員会 
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石囲い木槨

 古墳時代初期の埋葬施設は、古墳内に竪穴式石室を設けるが一般的でした。円丘や方丘の中央に丸石、川原石、礫石などを縦状に積み上げて造りました。
 ホケノ山古墳の竪穴式石室では、床面(石床)にいくつかの柱穴がありましたので、ここに木の柱を据え付けて棺のまわりを丸太や板材で囲っていたと推定されます。つまり棺を取り囲むような外枠があったわけで、これを“槨”といいます。
 槨は棺を外囲いするものですから、外棺(そとひつぎ)とか“うわひつぎ”とかと呼ばれます。槨の素材が木である物を「石囲い木槨(もっかく)」構造、石の場合を石囲い石槨、瓦(レンガ)の場合を石囲い塼槨(せんかく)などと呼びます。
 “槨”を設けて棺を二重構造とする目的は何でしょうか。被葬者を収める棺は、石、木、壺、甕などで造られますから、これが壊れるのを防ぐねらいがあるでしょう。構造によっては石室の法面が崩れるのを防いだり、石室の蓋(ふた)や天井を支えたりという目的も考えられます。あるいは棺のまわりを飾りたてて石室を豪華にする効果を考えた場合もあったでしょう。後述するように墳丘の上に建物を建てるため、と推測されるものもあります。
 槨(外棺)を設けるのは、古代中国の墓制における様式で、我が国にとっての直接的ルーツは朝鮮半島にあった楽浪郡とされています。紀元前108年に中国が半島に設けた植民地で、いまの北朝鮮の平壌あたりが中心でした。石囲い木槨構造は朝鮮半島のほか、日本でもいくつかの墳丘墓で取り入れられていますが、いくつかのバリエーションがあります。

 考古学者の広瀬和雄氏は著書の『カミ観念と古代国家』(角川学芸出版)のなかで、ホケノ山古墳の「石囲い木槨」について、石床の柱穴の配置から通例の外囲いのほかに「独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)」の建物を建てるためのものがあるといいます。
 建物のもっとも高いところに「棟木」をわたす建物の場合、棟木に沿って平行な面を平側、直行する面を妻側といいます。独立棟持柱とは、妻側の壁の外側に配置して棟木の先端を支える柱です。平側から見ると、長くて太い柱が棟の両端を直接的に支えているように見えます。
 弥生時代から古墳時代にかけて、遺跡における柱穴の配置から推定される建築様式です。大阪府泉大津市にある池上曽根遺跡で当時のようすが復元されています(写真参照)。独立棟持ち柱.JPGまた弥生時代の銅鐸にしばしばその絵が刻まれています。のちの神明造り神殿の基礎になったと考えられています。
 広瀬氏は福岡県糸島市にある平原(ひらばる)1号墓にも、同様に独立棟持柱を建てた柱穴が見つかるとします。平原1号墓は全長が10mあまりと小ぶりな方形周溝墓ですが、方格規矩四神鏡32面、内行花文鏡7面、虺竜(きりゅう)文鏡1面と、合わせて40面の銅鏡が副葬されていました。被葬者は魏志倭人伝にいう伊都国の女王ではないかとする推定がある弥生墓です。
 平原1号墳やホケノ山古墳の墳丘上に建てられたと考えられる「独立棟持柱」建物の目的は何でしょうか。首長が亡くなった際に、そこでモガリ(死者とともにいて霊を慰めつつ死を確認する儀式)を行うためであるとか、そこで首長の交代に伴う秘儀が行われたとかの説があります。

 このほか弥生時代後期の墳丘墓で、木槨構造をもっている事例をいくつか掲げておきます。
 島根県出雲市にある西谷3号墓は、最長部の長さが50mに達する四隅突出型の方形周溝墓ですが、石床に4個の柱穴が検出されました。この柱穴も墳丘上にアズマヤを建てるためのものと推定され、地元の専門家はここで首長の葬送するための儀式が執り行われたと考えています。
 岡山倉敷市にある楯築(たてつき)墳丘墓は全長70mの双方中円墳です。遺跡の傍らに建てられた説明版には、岡山大学の近藤義郎氏によって「木棺の大きさは2m×0.7m、木槨の大きさは3.5m×1.5m、底板が2枚」発見されたとあります。棺のまわりに、棺よりひとまわり大きくかつ二段構えの底部をもった槨が形成されていたと推定されています。
 徳島県鳴門市板野にある萩原1号墓と2号墓が、ホケノ山古墳との関連でもっとも注目されています。徳島県教育委員会の菅原康夫氏は、この2つの墳丘墓にホケノ山古墳の「石囲い木槨」の祖形があるとします。埋葬施設の構造は被葬者にとっても古墳を築く集団にとっても、きわめて保守的なものでしょうから、阿讃と畿内との間で人的つながりなどの深い関係があったことが推定されます。
 2つの萩原墳丘墓は、阿讃山脈(阿波と讃岐の間に横たわる山脈)が徳島県側において吉野川に向けて南に下る斜面にあります。2つは山の斜面に上下に隣接し、2号墳が上側、1号墳が下側にありました。築造時期は2世紀末~3世紀初頭で、2号墳、1号墳の順番に築造されたと考えられています。この墳丘墓の石囲い木槨構造を徳島県埋蔵文化センターで復元した図が写真のとおりです。石囲い木槨.JPG
 萩原墳丘墓は、ともに円墳に小さな方形の突出部が付いた墳形をしており「前方後円形」と呼ばれ、前方後円墳の祖形とされるものでもあります。埋葬施設のなかを辰砂(しんしゃ=水銀)で朱色に染めていることでも、ホケノ山との共通性があります。阿波の吉野川周辺は、辰砂の有力な産地でした。
 なお山腹の下側にあった萩原1号墓は発掘調査ののち、山沿いを走る道路や鉄道が建設されて失われました。2号墓は調査ののちに埋戻されて現存します。萩原2号墓.JPG 右の写真は、現在における2号墓の外観です。積石塚古墳ですから、礫石が散在します。

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ホケノ山古墳

 箸墓古墳との関連で、その近傍にある「ホケノ山古墳」が大きな関心を集めます。二つの古墳はともに奈良県桜井市北部の纒向地域にあって、互いの距離がわずか300mほどです。
 ホケノ山古墳も前方後円墳ですが、前方部の形状が箸墓のバチ型とは少し異なります。長さが短くかつ末端が高く盛り上がって帆立貝のようですので「帆立貝式前方後円墳」と呼ばれます。全長は約80mで、規模の面でも箸墓と差があります。ただし築造されたのは古墳時代初期のほぼ同じ時期です。箸墓よりホケノ.JPG
 箸墓の東方にホケノ山がありますが、二つの古墳を同じ地図上にプロットして箸墓の主軸(中心線)を延長していくと、その線上にホケノ山の後円部の中心があります(挿入図参照)。つまり箸墓の前方部にいて後円部の中央にある石室に祈りの方向を定めると、その先にホケノ山の後円部の石室もあるわけです。つまり両古墳の埋葬施設を同時に祈ることができるように配置されているのです。前方後円墳は、円墳や方墳と違って主軸となる線を引くことができますから、こういう考え方が成り立ちます。
 これがたまたまであるのか、意図的に配置したものかはわかりません。多くの古墳が混み合っている地域ですから、たまたまの事象かもしれません。意図的に設計したものとすれば、両古墳の被葬者がきわめて近い関係があったことを意味するでしょう。というわけで箸墓古墳とホケノ山古墳について、築造された順番、築造年代、被葬者などに関心が集まります。
 ホケノ山古墳は、奈良県橿原市にある橿原考古学研究所によって何回かの発掘調査が行われ、2008年に『ホケノ山古墳の研究』という報告書が発表されています。諸調査を踏まえてホケノ山古墳の築造時期の要点を整理すると次のようになります。

・ 古墳から見つかった小枝の炭素14年代測定の結果はAD250~400という幅があった
・ 石室に用いられた柱材はBC210~BC50と古い時代に伐採されたものであった。また木棺に用いられた木材はAD120年を中心とする前後50~100年間に伐採されたものであった。(もっとも古い木材が後の時代に使われる例があるから築造年の決め手にはならない)
・ 土器の編年研究によると、AD200-250年のものとされる庄内式土器が20体あまりあるなかに、AD250-400年のものとされる布留式土器が3点あった。(布留式のものは古墳の上に置かれた後世のものが石室の天井の崩落にともなって落下した、と考える人もいる)
・ 画紋帯神獣鏡(中国の後漢時代である2世紀末から3世紀初に造られた)1面のほか、いくつかの鏡の破片があった(より新しい時代の古墳から出土する三角縁神獣鏡はなかった)

 これらからホケノ山古墳の築造時期は、箸墓古墳のそれよりも総じて古いと考える材料が多いようです。ただし木材小枝の(日本産樹木の較正年代による)炭素14年代測定で箸墓よりホケナ山の方が新しいとする主張もあります。土器の編年については、専門家によって年代観に差があり定まりません。
 墳形については、バチ型前方後円墳が箸墓以降において、大王墓(巨大古墳)を含め全国で広く採用されますから、帆立貝型がバチ型の先行形と考えられることがあります。ただしバチ型が一般的になったあとも、ランクがやや低いと見られる被葬者の古墳に帆立貝型が採用され続けたという実態があります。
 ということで、ホケノ山の築造年代も、箸墓が先かホケノ山が先かの問題も、いまのところ決め手はありません。資料が限定的ですので箸墓古墳の発掘が許されない限り、これ以上の意見集約はむつかしそうです。

 ホケノ山古墳の被葬者は、いったい誰でしょうか。この古墳の南東に三輪山(標高467m)がそびえていますが、三輪山そのものをご神体とする大神(おおみわ)神社には「ホケノ山古墳の被葬者が豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)である」という伝承があるようです。大神神社は当時の大王家が尊崇した神社です。
 豊鍬入姫は『日本書紀』によると第十代崇神天皇の皇女で、次のようなエピソードにおいて登場する人物です。

  皇室の守り神である天照大神(アマテラスオオミカミ)と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)は、崇神天皇のときまでは宮中において、ともに祀られていた。しかしそれでは「二つの神が互いに威勢を遠慮されて心地よく思われないであろう」との考えから、それぞれを宮中の外でお祀りすることにした。
  その折に天照大神は笠縫邑(かさぬいのむら・比定地不明)に遷し祀ることとなり、豊鍬入姫が祭主となっ た。

 笠縫邑に遷った神社が後に発展して伊勢神宮になりますから、豊鍬入姫は政権内で重要な役割を担った女性といえます。(なお現在の伊勢神宮のご祭神は、内宮が天照大神、外宮が豊受媛です。豊鍬入姫と豊受媛は、天照大神に仕えることで一致し“豊”でも一致します)
  “豊”は稲作における「豊穣」を象徴し祈念する文字でしょうが、台与(トヨ)に通じます。魏志倭人伝には、卑弥呼が亡くなったあと「男王を立てしも国中服せず、こもごも相誅殺し、当時千余人を殺す、復(また)卑弥呼の宗女(一族の女)台与年十三なるを立てて王となし、国中ついに定まる」と書かれています。日本書紀の記述では、崇神天皇にとって倭迹迹日百襲姫が姑(おば)にあたり、豊鍬入姫が娘に当たりますから、まさに同族です。
 問題は、豊鍬入姫が台与に該当するかどうかです。難点は日本書紀に書かれた皇統譜のとおりとすると、倭迹迹日百襲姫と豊鍬入姫とは3世代を隔てます。百襲姫は第七代孝霊天皇の皇女であり、豊鍬入姫は第十代崇神天皇の皇女だからです。天皇はすべて直系の男子によって継承された形になっていますから、3世代の隔たりは年齢もかなりかけ離れることを意味します。
 ただしこれには万世一系の皇統譜を創るために、ある程度の虚構が入ったことによるでしょう。孝霊天皇などに擬せられる邪馬台国時代から崇神天皇以降の体制にいたる間で、皇統が変化したと考えるのがふつうです。つまり同族のなかでも、少し離れた系譜の者に支配権が移ったと考えられます。そうすると例え3世代を隔てても、年齢的に大きな違いがなかった可能性があります。自分の親と従兄弟にあたる人の孫とが年齢的にそれほど大きな差がないことは、我々のまわりでもありうることです。
 現に日本書紀の崇神天皇の条には、百襲姫の予言によって崇神天皇の危機が救われる場面が書かれていますから、両名は同時期に活躍できるほどの年齢差であった。倭人伝では「卑弥呼は・・・年すでに長大」とあって長生きをし、台与は13歳で女王になったわけですから「百襲姫の後継者が豊鍬入姫」という組み合わせは、年齢的に十分可能です。
 想像を働かせれば、次のような成り行きは大いにありうることに思えます。
 「百襲姫(卑弥呼)の後継者として彼女と同様にシャーマン的能力を備えている者を一族のなかで探した。豊鍬入姫が浮かんだ(のちに天照大神の祭主になるほどだから間違いない)。若年ながら豊鍬入姫(台与)が百襲姫(卑弥呼)の後継女王に選ばれ、国中が定まった。その功によって父である崇神天皇が実質的権力を握るようになった」
 歴史書や伝承にできるだけ信をおいて推論を重ねると<箸墓古墳の主=倭迹迹日百襲姫=卑弥呼><ホケノ山古墳の主=豊鍬入姫=台与>という図式が成立します。とすれば百襲姫は豊鍬入姫より先に亡くなっていますから、箸墓がホケノ山より先に築造されたことになります。(写真はホケノ山古墳から箸墓古墳を望んだものです)  ホケノ&箸墓.JPG


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◆箸墓古墳◆

 倭迹迹日百襲姫と讃岐との深いつながりを示唆するものの第二は、古墳に関するものです。『日本書紀』のなかで「箸墓古墳」が倭迹迹日百襲姫の墓であるとされています。奈良県桜井市北部の纒向地域にあります。
 古墳時代初期における最大規模の前方後円墳で、全長が278mあります。前方後円墳とは、方形(四角形)をなす前方部と円丘からなる後円部が合体した形をしていますが、箸墓の後円部の直径は160mです。『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓の大きさを「径百余歩」と伝えます。当時の計量単位によれば、1歩は6尺、1尺は約24cmですから、1歩が1.44m、100歩は144mとなります。160mは、百余歩という表現にみごとに合致します。箸墓古墳 CIMG3649.JPG
 これは<卑弥呼=倭迹迹日百襲姫>を強く窺わせる事実です。徳島県の郷土史家であった笠松新吉氏が大正時代に「箸墓は卑弥呼の墓である」と指摘しました。このことの慧眼ぶりが改めて想起されています。
 箸墓古墳は前方部に当たる方形が古墳の先端に向けて末広がりとなっており、三味線のバチ(撥)のような形をしているので「バチ型前方後円墳」と呼ばれます。これと相似形の前方後円墳が、その後に九州から南東北に至る広範囲で築造されますので、各地の有力者の間で墳墓形式に関する政治的合意ができあがったように見えます。このことから考古学者の都出比呂志氏は「前方後円墳体制」が成立したとします。同じく広瀬和雄氏は「古墳時代は前方後円墳国家の時代」と説きます。魏志倭人伝は倭国の大乱が卑弥呼の共立によって収まったとしますから、これと平仄があう話です。
 そこで箸墓古墳がいつ築造されたかに興味が集まります。魏志倭人伝によって卑弥呼は西暦247年または248年に没したと推察されますので、これと一致するかどうかです。宮内庁が皇室の陵墓であることを理由に発掘調査を許可しませんので、周辺から得られた土器や埴輪などの分析によって年代を推し量ることとなります。

 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(以下「歴博」という)は「炭素14年代測定法」によって、さまざまの歴史的遺物の年代分析を行ってきました。これを踏まえて歴博は2009年5月に「箸墓古墳の築造時に用いられた土器は、西暦240-260年と捉えるのが合理的である」という見解を発表しました。これが先述の卑弥呼の没年に合致しますから、おおきな反響を呼びました。「邪馬台国が九州にあったのか近畿にあったのか」という年来の論争の帰趨に大きな影響を与えますので、議論が熱気を帯びています。
 「炭素14年代測定法」とは、炭素の同位体比(炭素14/炭素12)に着目するものです。炭素原子の多くは陽子6個と中性子6個による〈炭素12〉からなりますが、ごくわずかの割合で中性子8個の〈炭素14〉という同位体を含んでいます。炭素が大気中にあるときは〈炭素14〉が生成と崩壊を繰り返して、同位体比が時代を通じて一定とされます。ところが光合成によって炭素が植物のなかに取り込まれたり、土器の付着物としてススや焦げ目などの炭化物になったりして固定化されると〈炭素14〉は半減期5730年という速度で崩壊します。そこで遺物に含まれている炭素の同位体比を測定すれば、それが空気中から取り込まれた(固定化された)年代を割り出すことができるわけです。
 箸墓古墳に対する歴博の見解に対しては、炭素14年代測定法の精度についてさまざまの疑念が表明されています。同じ年代の炭素を含有する遺物であっても、木の小枝であるか土器に付着した焦げ目であるかなどの違いによって異なる値を示すのではないか。国際的にみて日本のように海浜に近い地域にある場合の較正値について、いまだ確たる数値が得られていないのではないか、などの意見があります。くわえてこの測定法は、もともと±20~40年ほどの測定誤差があるもののようです。

 歴博の見解に異議を唱える人びとは、箸墓がもう少し新しい時期である3世紀の後半とか4世紀の初めとかに築造されたものと考えます。その結果、被葬者は卑弥呼の後継女王である「台与(とよ)」ではないか、あるいは「崇神天皇」ではないかと主張します。
 魏志倭人伝は「卑弥呼の死後に男王を立てたが国中が服せず、卑弥呼の宗女(一族の女)の台与を立てて国が定まった」としますから、箸墓を台与の墓とすれば、より新しい時代の古墳であるとの主張にピッタリです。しかしそれでは卑弥呼の墓はどれになるのでしょうか。一世を風靡した卑弥呼の墓よりも、後継者の墓の方が大きいというのは解せない話に思えます。
 崇神天皇は『古事記』に「ハツクニシラシシ スメラミコト」と書かれます。「初国知らしし」ですから、日本を広汎に治めた最初の大王(天皇)を意味します。箸墓は当時において先例のない巨大古墳ですから、被葬者の候補として申し分のない実力者です。
 しかし箸墓の被葬者を崇神天皇とすると、魏志倭人伝(卑弥呼のために「径百余歩」の墓を築いた)と日本書紀(倭迹迹日百襲姫のために、大坂山から手越しに石を運んで墓を築造した)という、二つの歴史書の記述を否定しなければなりません。ともに女性の支配者に対して巨大な墓を造ったとする点では、みごとに一致しているからです。当時の記録は神話的要素を含んでいたり、伝聞による情報であったりと、信を置けない部分もあるでしょうが、両方を二つながら信用しないとするのは乱暴な議論に思えます。
 以上のような次第で、箸墓古墳の築造年代に関する議論も、被葬者が誰であるかの謎も、容易には決着しません。古墳の調査が許されない限り、延々とした議論が続くのでしょう。



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